発達障害児が9万人を超えたというニュースは多くの読者に驚きを与えた。ではその親はどのような心境なのか。コラムニスト・オバタカズユキ氏が一冊のコミック・エッセイを紹介する。
* * *
当ニュースサイトで5月7日に、「発達障害児が9万人超え 20年あまりで7倍増の理由」と題する拙稿を掲載させてもらったところ、たくさんの方に読んでいただくことができた。
内容は、発達障害で「通級指導」を受けている公立小中学校の児童・生徒が、この20年あまりで7倍以上増えたというニュースを紹介、増加の主因はこれまで見過ごされていた発達障害が診断されるようになったからではないか、と述べたもの。そして、そのこと自体は医療の進歩だが、例えば、障害児たちを受け入れる学校の先生が多忙すぎて悲鳴をあげている、1クラスあたりの児童・生徒の人数を減らす教育政策が必要だ、と私見を添えた。
医療・福祉界や教育界では普通に知られている事実を書き、ごく穏当な(凡庸な)提案でまとめたにすぎないコラムである。なのに、掲載後の反響が大きく、ちょっと驚いた。
こんなことも滅多にないから、実際に読んでくれたのはどういう方でどういった感想を持ったのか、調べてみた。もっとも目についたのは、「自分もそうだったかも」と、ご自身の児童・生徒時代を振り返る読者の声だった。近年、発達障害と診断されるようになった子の多くは、昔だったら〈ちょっと変わった拘りを持っていたり、落ち着きがなかったり、癇癪を起こしたり、なんらか平均値から大き目に外れた傾向の子〉だったはず、という旨をコラムに書いたのだが、その部分に自身を重ねた方が大勢いたのである。
また、発達障害とは直接関わりはないけれども、これは重要な社会問題だとコメントしてくれる読者も多かった。ネット上で障害者の話はからかいネタになりがちだが、ふざけた反応はほとんど見られず、意外なほど真面目に読んでもらえた感触がある。それだけ「発達障害」が身近なテーマになっている、ということのような気がした。
発達障害者と健常者の間に、明確な線は引けないものだ。誰もが平均値から外れた何らかの性格傾向を有しているためである。その過剰や欠落が社会的日常生活を困難にさせるような場合、障害がある、とされる。
それまで順調にやってきた人でも、自分の置かれている社会環境が変化すれば、発達障害者のような困難にぶつかることも十分にありえる。自分の性格傾向と周囲の人間の常識が折り合わなくなるのだ。そうした人生の不確実性を、たくさんの人々が共有するようになったのだろう。
しかし、そのような困難からの脱出はそう簡単じゃない。薬を飲んで治るわけでもないし、フォローやバックアップをしてくれる社会的資源は不十分だ。発達障害の現実が、決して24時間テレビのようなキレイ事で語れないことは、もっと知られるべきだと思う。
学校の現場が大変になっていることは前のコラムで触れたが、より大変なのは「発達障害児の親」だ。その七転八倒ぶりを描いた書籍が、つい先日文庫化されたので、紹介したい。『娘が発達障害と診断されて… 母親やめてもいいですか』という体験コミックエッセイだ。