日本の歴史に名を残した英雄たちの死因は様々だが、意外にも「梅毒」で命を失った武将は多く、名軍師として名高い黒田官兵衛をはじめ、家康の次男で越前北ノ庄初代藩主の結城秀康、熊本の加藤清正などがこの病にかかっていたとの説がある。
当時「唐瘡」「琉球瘡」と呼ばれた梅毒は、南蛮からもたらされたというのが定説。「その伝来は鉄砲よりも早く、1510年代に、中国人や琉球人が南蛮人から感染し、九州から全国各地へ伝播したと考えられる」というのは歴史研究家の川口素生氏。
また、歴史作家の山崎光夫氏は「戦国時代は複数人と関係を持つことがステータスの一種で、家康は記録されているだけで16人の側室をもっていた。当時は男性同士が関係を持つことも珍しくなく、コンドームもなかった。この時代の人の5人に1人は梅毒などの性病に罹っていたはず」という。
もちろん梅毒以外の性病が蔓延していたことも考えられるが、淋病は重症化し死因となることがまれで史料に残されることが少ない。
江戸時代に入ると吉原などの遊郭が発達することで、梅毒の流行に拍車が掛かる。『解体新書』の著者で医師の杉田玄白の回想には「1000人の患者のうち、700~800人は梅毒だった」という記述も残されている。さらに幕末に西洋医学を日本に伝えたオランダの医師・ボンベは「日本人は夫婦以外との性行為に対する罪悪感がない。遊郭での性病対策もなく一般家庭に蔓延している」と指摘した。
現代ではまれだが、梅毒は潜伏期間を含め感染から死に至るまで通常は10年以上かかる。仮に歴史上の偉人が梅毒に感染しても、重症化するまでに他の病などで命を落とすケースもあっただろう。その場合は死因として史料に残されることがないから、実際にはもっと多くの有名な武将が性病に悩まされていたと見ていい。
※SAPIO2016年6月号