暗殺や討死、自死など、ドラマチックな最期を迎えた英雄の氏は語り継がれるが、病に斃れた英雄の最期が語られることは少ない。しかし後年の研究により、平清盛は「インフルエンザ」、徳川家康や武田信玄は「胃がん」、黒田官兵衛は「梅毒」などが死因となったという説が有力だ。
現代人がなぜ、当時の病気について知り得るのか。日記や伝記などの史料を辿り、そこに書かれた症状から推察する場合も多いが、近年では縄文時代のように古い時代でも、発掘された骨から結核や変形性関節症の痕を特定できるようになってきた。最新の研究では、遺跡から出土した遺物に付着する寄生虫卵から、中間宿主である魚の種類までわかるようになっている。
死に至る病ではないが、幕末志士の坂本龍馬はADHD(注意欠陥多動性障害)であったとする説がある。ADHDとは発達障害の一種で、集中できない、じっとしていられないなど感情のコントロールができにくいケースがある反面、類まれな行動力や創造性を発揮するという特徴がある。これが、龍馬の逸話と一致する点が多いのだ。
こうしてみると、病が歴史の変化をもたらした事例は枚挙に暇がない。病は歴史を揺り動かしてきたと言える。足利尊氏は、矢傷からの細菌感染により52歳で世を去った。南北朝の動乱を長引かせた尊氏の突然の死は、尊氏だけでなく日本の歴史にとっても予期せぬものだったに違いない。
歴史に「たられば」が許されるなら、という夢想話で名前が挙がるのが武田信玄であろう。天下にその名を轟かせた信玄だったが、胃がんと思われる病で急激に体調を崩し、まさにこれからというところで51年の生涯に幕を下ろす。
それが武田家にとってどれほどのことだったかは、信玄自らが「没後3年の間は秘匿せよ」と遺言を残したことからも想像がつく。事実、武田家は信玄の死後10年も経たず滅亡した。
信玄が病に斃れなければ、死の2年後に起きた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗する結果とはならなかったかもしれない。長篠の戦いを率いた子の勝頼は、有名な織田の「三段銃陣」に対し正面突破する戦略で甚大な被害を受け、武田家滅亡のきっかけを作ったが、戦略家の信玄が健在だったら別の選択をした可能性は十分あるだろう。
※SAPIO2016年6月号