【書評】『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』盛田隆二・著/双葉社/1400円+税
【評者】関川夏央(作家)
まさに他人事ではない。盛田隆二が十八年間勤めた会社を辞めて作家専業となって間もない頃、わざわざ母が会いたいといってきた。そのとき六十代後半、看護師長から川越市の訪問看護ステーションの設立責任者になっていた母は、四十代前半の息子に、自分が遺伝性パーキンソン病を発症したことを告げた。
仕事はつづけたが、やがて病状は急速に悪化、八歳上の連れあいを心配しながら七十一歳で亡くなった。国家公務員を定年退職して久しい盛田の父は無趣味な亭主関白、お茶もいれられずATMも使ったことのない人であった。
その父が母の死から二年、認知症の兆候を示して、著者の苦労ははじまった。そのうえ統合失調症を病む妹がいる。服薬していれば症状は克服できるが、本人に病識がないから、わざと忘れる。老人保健施設に入所させた父の認知症は進行する。
ふたりの面倒を見るのは苦しい。著者自身、不眠と幻聴、深刻な「ウツ」に見舞われる。そうこうするうち、盛田の妻が激しい腰痛を訴え、一時は血管腫さえ疑われた。のちに椎間板ヘルニアの特殊型と判明したが、三人の病者をかかえる可能性に直面した衝撃が著者の「ウツ」を軽快させた。非常時に「自分にかかずらう余地が」なくなったのである。心とは不思議だ。
父は二〇一三年早春、「要介護5」のまま老衰で亡くなった。九十一歳であった。遺品を整理すると「般若心経」の写経が二百四十枚も見つかった。無反応・無感動に見えた父だったが、母の病状が悪化したときその回復を祈って書いたのである。
この本には、一九六一年の父母の並立写真がある。ハンサムでダンディな三十九歳の父と、がんばり屋の三十一歳の母が、若い日本の風に吹かれて立っている。現状の少子・高齢化した社会は、このさわやかな夫婦を含め、戦後日本人の努力の達成なのだ。これは盛田ひとりの「物語」ではない。私たちの「現実」である。
※週刊ポスト2016年6月24日号