今は昔、東大法学部の同級生だった2人が東京都知事選を争った。鳩山邦夫氏と舛添要一氏だ。「オレが首席だった」──選挙戦で2人はそういって譲らなかったが、ともに落選した。
あれから17年、舛添氏がスキャンダルにまみれて都知事を辞職したその日(6月21日)、鳩山氏が世を去った。死因は十二指腸潰瘍。67歳だった。
鳩山一郎・元首相の孫というサラブレッドながら、田中角栄氏の秘書となり“どぶ板選挙”を叩き込まれた。自民党、新進党、旧民主党、そして自民党復党また離党と政党を渡り歩いたが、サービス精神旺盛で誰からも憎まれなかった。
エピソードには事欠かない。エミリ夫人がまだ17歳のアイドルだった時にプロポーズ。蝶の収集家として世界的にも知られた。
政治家としては文部大臣、労働大臣、法務大臣、総務大臣を歴任、政治にカネを散じるのを惜しまなかったことでも知られる。
旧民主党結党の際には兄・由紀夫氏と2人で15億円を負担、盟友の麻生太郎氏が2007年の自民党総裁選に出馬した時は選対本部長を務め、落選後のスタッフの打ち上げ費用がないと聞くと、「みんなで飲んでくれ」ポンと100万円を渡したエピソードは有名だ。
かつて鳩山氏の秘書を務めたジャーナリストの上杉隆氏は、「秘書時代、国会会期中で忙しいのに私の父の通夜・告別式に参列して棺まで担いでくれた。人との繋がりを大事にする政治家でした」と振り返る。
「友人の友人がアルカイダ」などの失言も、行き過ぎたサービス精神ゆえかもしれない。
本誌記者は2回目の自民党離党を表明した翌日、鳩山氏の自宅を訪れた。自宅にカメラマンが詰めかけたことを知り、シャッターチャンスをやろうとわざわざ家庭菜園のアスパラを採取するところを見せてくれた。このあたり、まるで苦労人の気配りでとてもエリートの資産家にできる芸当ではない。
ちなみに鳩山氏との東大首席争いの真相について、舛添氏はかつて本誌記者にこう明かしたことがある。
「同期の首席は私でも鳩山でもなく、足利冤罪事件で主任弁護人を務めた佐藤博史弁護士だったかな」
これもご愛敬か。まだまだ政界に彩りを与えてほしい人物だった。
※週刊ポスト2016年7月8日号