【書評】『本に遇うIII 持つべき友は みな、本の中で出会った』河谷史夫・著/言視舎/2200円+税
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
著者は一九四五年生まれ。二十五歳で朝日新聞に入社。半生を過ごした。新聞が正義派メディアの主人公であった時代に立ち会った。善玉、悪玉、クセモノ入り乱れての組織内ドラマをつぶさに見ていた。メリーゴーラウンドのようにマスコミ事情が一回転して、気がつくとすぐわきに、もはや自分と縁のない世界がある。この間、得たものはわずかで、失ったものがどっさり。
──かどうかは、わからない。出会った本をめぐるキレのいいエッセイを読んでいて思ったまでだ。話題は社会、政治、歴史、その他もろもろにひろがっていく。2011年から五年間の発表分から選んである。ニュースの世界に生きてきた人は、組織を離れてもニュース性の嗅ぎ分けに敏感だ。過去を語っても、そっくりイキのいい現代の映し絵になっていく。この世の役割りを終えた人を通して、まさに眼前に見る愚行録を思い出させてくれる。
「その読書法は明確である。終始一貫して自分の判断に従い、大勢に迎合することはない」
そのまま著者の読書法でもあるだろう。とともに、ハミ出た部分も読みとれる。テンポよく断言しても、この語り手は自分の無力さに対する羞じらいをもっている。とともに、若かったときの心のふるえも、記憶の底にとどめている。
だからこそ、ながらく自分のいた職場の迷走ぶり、「アベノミクス」と言いそやされるものの虚妄など、定跡どおりと思われるものを怖れずに書きとめていく。それは警官が現場の位置の確認のために、白いチョークで丸く囲っておくようなものなので、同じ現場が見る目と見る時によって、いかに変化するかが見えてくる。
文化勲章受章の噺家桂米朝の死を悼んで、「ただ一つの痛恨事」に触れるくだり。鬱のため高座に上がれないと、泣いて謝る一番弟子枝雀に対して、自分にはその経験がなく、「どないもいうてやりようがない」無念さを噛みしめている。いかにもこの人らしいしめくくり。
※週刊ポスト2016年7月15日号