「退任してくださーい!」
「経営能力がゼロやな!」
6月23日、大阪市内で開かれたシャープの株主総会は大荒れだった。台湾の鴻海精密工業の子会社として経営再建することを決めた高橋興三社長が壇上に立つと、株主からヤジや批判が噴出。高橋社長は「すぐ(退任)します」と明言せざるを得なくなるなど、4時間半に及んだ総会は最後まで紛糾した。
シャープだけでない。同28日に開かれた欠陥エアバッグのリコール問題で揺れる自動車部品大手タカタの株主総会では、株主の1人が高田重久会長兼社長に、「辞める意思を早く表明して!」と迫ると、他の株主からも経営責任を問う声が続出した。高田氏が経営再建の道筋をつけた後に辞任する考えを示したことで、ようやく閉会に至った。
経営難や不祥事が発覚した企業にとっては“試練の場”となった今年の株主総会のピークは同29日だった。
3月決算企業の約3割に当たる759社が一斉に株主総会を開き、本社機能が数多く集まる東京では警視庁が1000人態勢で警戒に当たり、都内各所で緊迫した空気が流れた。だが、かつて総会屋が跋扈した時代の株主総会の緊迫度はこんなものではなかった。
総会屋の動向に詳しいジャーナリストの伊藤博敏氏が言う。
「現在、総会屋は100人程度にまで減り、株主総会で発言をする現役に限っては10人にも満たない。しかし、ピーク時の1970年代には8000人以上いたと言われる。大声で場を荒らすといったイメージが強い総会屋ですが、実際は、会社から賛助金をもらって“シャンシャン(短時間)”で総会を終わらせる与党総会屋のほうが主流でした」
総会屋という存在が世に初めて知られたのは、作家・城山三郎が総会屋の生態を描いた『総会屋錦城』で直木賞を受賞した1958年にまで遡る。
「当時は小説のモデルとなった久保祐三郎や“三菱の守護神”といわれた上森子鉄など、数人の大物総会屋が業界を仕切っていました。彼らは与党総会屋として、混乱や滞りを排した秩序ある株主総会を演出することに矜持を抱いていた」(同前)
変化が表われ始めるのは、日本が高度経済成長期に突入した1960年代半ば以降だ。高度成長の波に乗り、上場企業数が増えるとともに総会屋の数も増え、暴力団を後ろ盾とする総会屋も現われた。ヤジや怒号で総会の場を荒らす野党総会屋が急増した。
その代表が“最後の総会屋”といわれた小川薫だった。広島弁でまくし立て総会を荒らす強面が、企業から恐れられていた。
小川の出現以降、社会に総会屋を締め出す機運が醸成されていく。
※週刊ポスト2016年7月15日号