「孝行のしたい時分に親はなし」というが、男にとって生まれて最初に接する異性である母の愛のありがたみは、失ってみて初めて気づくことがほとんどだろう。「瞼の母」の思い出を、新党大地代表の鈴木宗男氏(68)が語る。
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今朝はニシンの塩漬けを食べました。これがめちゃくちゃ、しょっぱい。だけど懐かしくて、60年前の味をかみしめる思いでした。
親父とおふくろが畑で豆や芋を作っていて、煮豆や芋を家でもよく食べていました。母の手料理といっても、他にはおつゆや漬け物に魚の糠漬けや塩漬け。地下に室を掘って食べ物を入れると、北海道は寒いから2~3か月は持つ。生活の知恵で、しょっぱいと保存がきくんだね。おふくろは日持ちのする煮付けもよく作ってくれた。
おふくろは大正9年生まれで、大正人特有の我慢強さがあった。男性上位で女性が常に従うという、昔の女性のひとつの生き様みたいなものがありました。
親父と畑仕事を朝早くから日が沈むまで、よく働くおふくろでした。学芸会でウサギの役をすることになって白いセーターが必要だと言ったら、ひと晩寝ずに編み上げてくれた。
ウチは金がなかったから大学へ行く時もおふくろは反対でした。「母ちゃんも行かせてやりたいけど、現実を考えろ」ってね。
でも、私はとにかく東京へ出ていかなくてはいけないと考えていた。その時は親父が「やってみろ」と言ってくれて大学へ行けたけど、私が19の時に親父が亡くなってしまった。おふくろはまだ45でした。
仕送りは毎月2万円。当時の大卒の初任給が2万ぐらいだったと思います。時々仕送りが滞ることもありましたね。結婚した時、地元の質屋のおじさんにこう言われたんです。
「あの頃、お母さんは着物を質に入れてでも2千円、3千円のお金を作って送っていたんですよ」
なんとも言えない気持ちになったですね……。おふくろは政治の道へ進むことも反対でした。安定した収入があるサラリーマンがよかったんです。でも結局は、私が進んだ道を応援してくれましたけどね。