甲子園制覇7回、春夏通算96勝を誇るPL学園野球部が“廃部”に追い込まれた。12人の3年生の中に、かつて当たり前だった特待生はいない。いわば普通の高校生である彼らはこの1年、「超強豪校の最後の部員」の看板を背負う重圧と戦い続けてきた。PLに起きた異変を2年にわたって追いかけてきたノンフィクションライター・柳川悠二氏が、「最後の夏」への軌跡をレポートする(文中敬称略)。
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夏の大阪大会初戦で東大阪大柏原に敗れた瞬間――即ち1956年創部のPL学園野球部が60年の歴史に幕を閉じた瞬間から、すでに15分が経過していた。
試合後、ベンチ前で真っ先に報道陣に囲まれた3年生の記録員・土井塁人の周りには、もう誰もいなくなっていた。労いの言葉をかけようと近づくと、土井の方が先に口を開いた。
「史上最弱と言われながらも、選手達は精一杯戦ってくれました」
他のナインより1歳上の土井は1年時に血液のがんの一種である「急性リンパ性白血病」を患い、およそ半年間、入院生活を送った。
医師からは骨髄移植を勧められたが抗がん剤治療を選択。学園の「退部して勉強に専念するなら進級は可能」という提案も拒否し、留年を決めた。大好きな野球を続けるためである。
最上級生となり、規定によって公式戦に出場することはできないが、今ではPL史上、最も長い時間をグラウンドで過ごした部員となった。普段の練習ではコーチのような存在でもあり、試合中は記録員を務めながら野球経験のない監督を助ける参謀的役割を担った。
「勝たせてあげることができなくて申し訳ないです」
その時である。往年の高校野球ファンなら誰もがそらで歌えるPL学園校歌がスタンドから聴こえてくる。
〈ああ PL PL〉〈永遠の学園 永遠の学園〉
土井は黒土にうずくまって嗚咽を漏らし、しばらくして次の言葉を絞り出した。
「せめて一回だけでも……一回でいいから、仲間と校歌を歌いたかった」