甲子園制覇7回、春夏通算96勝を誇るPL学園野球部が“廃部”に追い込まれた。12人の3年生の中に、かつて当たり前だった特待生はいない。いわば普通の高校生である彼らはこの1年、「超強豪校の最後の部員」の看板を背負う重圧と戦い続けてきた。
PLに起きた異変を2年にわたって追いかけてきたノンフィクションライター・柳川悠二氏が、「最後の夏」への軌跡をレポートする。ここでは、PL学園の母体となるPL教団の現状が野球部に与えた影響についてだ。(文中敬称略)
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野球部はPL教団の広告塔的役割を色濃く担ってきた。「人生は芸術である」を処世訓に掲げた2代教主・御木徳近は、野球を愛し、野球で甲子園を目指すことが世界平和に通じると説いた。
1978年夏の甲子園で、逆転に次ぐ逆転で勝ち上がったことから、「逆転のPL」が野球部の代名詞となった。たとえリードされた展開でも、しきり抜いて、一プレーに集中する。そうして初めて全国制覇を達成した。
1983年に徳近が鬼籍に入った直後、入学したのが桑田真澄、清原和博のKKコンビだ。5季連続で甲子園に出場し、2度の全国優勝を達成。同時期、教団は最盛期を迎え、公称信者数は240万人に達した。
全国の信者のネットワークを駆使して、有望選手の情報を集め、セレクションを行ったのもその頃だ。
初優勝した時の捕手で元阪神の木戸克彦はこう話す。
「プロ顔負けの練習環境がPLにはあった。グラウンドの横に寮を作ったのも、当時は全国の学校の先駆けだった。その伝統に誇りを持っているけれど、悪いことも続けたからね……」