医療の進歩により長く生きるのがあたり前となりつつある現代。一方で、終末期の患者からは「延命で苦しむよりも早く逝きたい」という声も聞かれるようになった。日本では法的に認められていない「安楽死」は、人間の「生」にとってどのような意味を持つのか。安楽死の「瞬間」に立ち会ったジャーナリスト・ 宮下洋一氏による真実の記録をお届けする。(2016年7月30日更新)
スイス編 イギリス人老婦 安楽死の瞬間
患者が自らの体内に毒薬を入れ、自死に至る。自殺幇助(ほうじょ)が合法化されているスイスで、自殺幇助団体ライフサークル代表のプライシック女医に「色んな人を取材し、様々な考えに触れなさい」と取材協力を約束された。
「ドリス、用意はできていますか」
「ドリス、用意はできていますか」「ええ……」。突如、英国人の老婦(81)の青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。右手に握っていたくしゃくしゃになったティッシュで目元を拭い、震えながらも振り絞った声で、次にはこう囁いた。「うう、ごめんなさい。こうなることは前々から分かっていたというのに」
「昨年、がんが見つかりました」
「あなたはなぜ、ここにやって来たのですか」「昨年、がんが見つかりました。私は、この先、検査と薬漬けの生活を望んでいないからです」「検査を望まないのは、人生を精一杯謳歌してきたからですか」「ええ、私の人生は最高でした。望み通りの人生を過ごしてきたわ。思い通りに生きられなくなったら、その時が私にとっての節目だって考えてきたの」
「はい、私は死ぬのです」
「私はあなたに点滴の針を入れ、ストッパーのロールを付けました。あなたがそのロールを開くことで、何が起こるか分かっていますか」「はい、私は死ぬのです」「ドリス、心の用意ができたら、いつ開けても構いませんよ」。この瞬間、老婦は何を思い浮かべたのだろうか。わずかな呼吸と共に、自らの手でロールを開き、そっと目を閉じた。
老婦の頭部が右の枕元にコクリと垂れた
20秒が経過した時、老婦の口が半開きになり、頭部が右の枕元にコクリと垂れた。まるでテレビの前でうたた寝を始めたようだった。数分前まで、笑顔で旅行の思い出を語っていた彼女の顔を覗き込んでみる。確かに死んでいる。苦しみながら死を遂げたのではない。今、ここで、彼女は自らの血液に毒を流し込み、「他人に見守られながら自殺」したのだ。もちろん、何が起きるかは事前に説明を受けていた。でも、現実に頭がついていかない。
スイス編 元医師のスウェーデン女性と夫
ヨーレル・ブンヌ(68)は突然、背中の痛みに襲われ、検査を受けると、膵臓(すいぞう)癌で余命はわずか半年と宣告される。スイス・バーゼル郊外にある田舎町に、夫のアンデルス・ユーブリンク(72)と滞在していた。翌朝の8時半、英国人老婦と同じ場所で、プライシック女医による自殺幇助が予定されていた。
「本当に死んでもいいんですか?」
「明日、本当に死んでもいいんですか?」。ブンヌはきっぱりと答えた。「もちろんよ。私自身の死ですから。なぜ、あと2か月も耐え難い痛みを我慢して生きなければならないの。この痛みから早く逃れたい。痛みが私の体を侵食していくの。元医師として、どんな結末が待っているのか、良く分かっているつもりよ。患者の痛みを和らげる緩和ケアが各国で主流になっていますが、まったく無意味だと思う。それは単なる嘘でしかない。この痛みを和らげることなんてできませんから」
「死ぬ私の姿を子供たちに見てほしくはない」
英国人老婦は「子供がいたら違った決断をしていたかもしれない」と話していたが、ブンヌはどうなのか。「私は大丈夫よ。子供たちもね。長男と長女がいます。すでにスウェーデンで別れを告げてきました。この決定は私の個人的なものだと思っているんです。死ぬ私の姿を子供たちに見てほしくはない。夫だけに私の最期の顔を見つめてもらいたいのです」
「もっと長く一緒にいたかったなぁ」
ブンヌとユーブリンクは共に元産婦人科医で、40年前に知り合った。「彼女の病を知った時、どんな思いでしたか?」「単なる冗談だと思いましたね。私が嘘だと笑っても、彼女の表情が変わらなかった。とてもショックでした。この病気はとにかく先が短い。どうしたら良いのか、分からなかった。医師だったから理解できるはずなのに、身近の人間だとそれができないんです」。「どうやって乗り越えたのですか?」「時間ですよ、ええ、時間。時間が私を苦しみから救ってくれたのです。でも、もっと長く一緒にいたかったなぁ」
翌朝、アパートの中で自殺幇助が行われた
翌朝、アパートの中で自殺幇助が行われた。私は前回とは異なり、アパートの中に招かれなかった。最期を看取るのは夫だけであってほしいという。ストッパーを開けた時、彼はブンヌの手を握り、お互いに涙を流したという。彼女が喉元に異変を感じた時、「これで最後よ」と、夫を見て囁いた。「奥さんに最後、何と伝えましたか?」「きみはこれから長い睡眠に入るんだよ。楽しい人生をありがとう。またどこかで会おう。愛しているよ、と…」
スイス編 自殺幇助団体の考え方
自殺幇助が合法化されているスイスで、もう一方の当事者に目を向けた。スイスの自殺幇助団体ライフサークル代表のプライシック女医(58)に、なぜ、この仕事をしているのかについてお届けする。
スイスは自殺幇助とセデーションが合法
スイスでは、自殺幇助とターミナルセデーション(終末期鎮静、以後「セデーション」)が合法化されている。セデーションとは、残りの命が通常1、2週間に迫ってきた主に末期癌患者に対し、耐え難い痛みを鎮静させるとともに人工的に昏睡状態に陥らせ、死に向かわせること。水分を与えないため、腎不全になり、3~7日間で死に至る。
自然死かセデーションか、自殺幇助か?
「私もセデーションを行いますが、基本的には反対です。癌を患う認知症患者などの間で、この手段が選ばれます。ただ、彼らは知覚や意識が低下しているから、自らの身に何が起きているのか分かっていない。モルヒネを打ったからといって、痛みが消えたのかも分かりにくい」。女医は、自殺幇助のほうが、患者本人が納得する死を迎えると信じている。「家族や友人にきちんと別れを告げることができますからね。何よりも、患者自身が(毒薬の)ストッパーを開けて、死を選択できる。患者も家族も納得できて良い別れになります」
死を予告された患者たちの反応
死を予告された患者たちは「先生、理想の死に方はどんな形?」と、常に同じ質問をするのだという。「2週間前、1人の喉頭癌患者を看たわ。彼女は、自殺幇助を好まない54歳の女性。私はなにも勧めず、彼女の意向で、『万が一のことがあれば、私がセデーションを行いますよ』とだけ伝えた。しかし、痛みが増した頃、彼女は言ったの。『先生、もう耐えられない。自殺幇助をお願いできますか』と」
「自殺幇助=強引な死」なのか?
長男がその母親を腕の中に抱き、長女がベッドの横に座って見届けた。母親は死を前に、悔いが残らないようすべてを言い尽くした後、ストッパーを開けて自らの命を絶ったのだ。女医はセデーションについてのネガティブな一面を伝えたわけではなく、患者本人の決定を待った。たとえ自殺幇助が合法だからといって、それを無理やり患者に押し付ける危険性を、彼女は十分理解している。わずかながら、私の中にあった「自殺幇助=強引な死」というイメージが薄らいでいった。
オランダ編 認知症の男性と家族
オランダは世界で最も早く安楽死を合法化し、その理解も国民の間に浸透しているという。2014年のデータによれば、安楽死の申告数は約5300件に上るともいわれている。世界で最も「死ぬ自由」が定着した国といっていい。認知症を理由に命を絶った79歳男性のケースを報告する。
彼を死に導かせたのは認知症
2013年11月、当時、79歳だったシープ・ピーテルスマが、毒薬を飲んでこの世を去った。シープは75歳になると皮膚癌が見つかる。これも進行性ではなく、安楽死とは直接的な関係を持たない。彼を死に導かせたのは、自死の11か月前に診断された認知症だった。「耐えられない痛み」とは何か。肉体的な痛み以外にも、人間には精神的な痛みがある。シープは、認知症のために徐々に、物事の判断がおぼつかなくなることに恐怖を感じ、死を選ぼうとした。
人間はそれぞれ、個人の生き方がある
シープが自死を決意したひとつの理由は、母親が同じ認知症で苦しんだ姿を見てきたからだった。当時は、今のような法律がなく、安楽死できず、彼は同じように死にたくないという思いが強かった。長男は兄弟を集め、家族会議を行った。1人の妹は参加を拒否したが、他は全員が、父の意思を支持した。「人間はそれぞれ、個人の生き方があるということを父は常々語っていた。だから、父の決定に口を出せるはずがありませんでした」
何が家族の本当の絆なのか?
長男以外は同じ村に住んでおり、家族同士の結び付きがある中で、安楽死が決行された事実に、私は正直、不意をつかれた。だが、話を聞いているうちに、何が家族の本当の絆なのか、考えさせられた。不幸と感じる人間を医療行為で生かし続けることが、果たして正しいのか。特に、肉体的・精神的に苦しんでいる場合は、ただ単に生かすことだけを優先するのではなく、その人間にとって、幸せとされる道時には死ぬことさえも、真剣に話し合ってみることが必要なのではないだろうか。そんな考えを、いつしか私は持つようになっていた。この取材を始める前には、口が裂けても言えなかったはずなのに…。
「死ぬときも人の手を借りて死にたくなかった」
夫妻は2013年9月にNVVE(オランダ安楽死協会)を通して、安楽死クリニックに属する医師を紹介してもらい、安楽死までのプロセスは着々と進んでいった。オランダでは医師が直接、患者に毒薬を投入し、“安楽死”を幇助する行為(積極的安楽死)も認められているが、シープは、自ら毒薬を飲んで死ぬことを選んだ。長男は、「死ぬときも人の手を借りて死にたくなかったんです。とても父らしいと思います」と、話した。ちなみにオランダではほとんどが医師の注射による積極的安楽死で、自殺幇助は少ない。
「耐えられない苦しみを、測る道具は存在しない」
安楽死当日、ボーステン医師がこの家を訪れた。彼は、レーデンで活動するホームドクターではない。患者が住む周辺の町医者が安楽死を認める医師とは限らないからだ。同医師は「耐えられない苦しみというのは、測定したくても、それを測る道具は存在しないのです。熱を出しているのではなく、それは感情なのです」。医師が、毒薬の用意を始めている。シープは、孫娘たちの手を握り、周りを囲む家族全員に語るように、ゆっくりと口を開いた。「いいかい、人間はみんな個人の生き方があるんだ。死ぬ権利だってある。誰ひとりとして、人間の生き方を他人が強要することなんてできないんだ。それだけは理解してくれ」
「眠くなってきた」と告げると永遠の眠りについた
スイスで見た点滴とは異なり、十数秒で死に至ることはない。毒薬を一気に飲み干すと、身体の力が抜け、徐々に眠りに落ちる。家族全員がシープを抱き、頬にキスを交わす。妻のトース(78)の目をじっと見つめる。人生で一番好きな歌を目の前の妻に歌われながら、シープは目を閉じ、コップの液体を飲み干した。「素敵な旅になりますように」。トースは優しく夫にそう囁いた。ソファに身体を倒したシープは、「眠くなってきた」と、最後に告げるとそのまま永遠の眠りについたのだった。「人生は、美しいものでなければなりません」。トースは、2年半前の夫の死を振り返りながら、そう語った。
オランダ編 「安楽死当日、パーティーをしよう」
当初、安楽死に懐疑的だった筆者(宮下氏)は、これまでのスイスやオランダでの取材を通して徐々に考えを改めていく。安楽死を巡る議論は国家の法規制の有無に終始しがちだが、それぞれの国民性や個人の性格にも関心を注ぐべきではないか。そう思い至るきっかけとなった、あるオランダ人数学教師の選択についてリポートする。
「僕が死ぬ日にパーティーをしよう!」
ネル(63)は、4年前に66歳で安楽死した夫のウィル・フィサーのことを語った。彼は教員生活を終えた後、左顎骨周辺が癌に冒されていることがわかった。癌が見つかって7か月後、死の2か月前には、咽喉部分にまで広がり、激痛とともに、呼吸さえも困難な状態になっていく。死の数週間前に2人で行ったベルギー旅行で、ウィルは「僕が死ぬ日にパーティーをしよう!」。妻は反対した。それは、安楽死を意味することだと気がついたからだ。
オランダでは、積極的安楽死と自殺幇助がある
2012年3月、2人はホームドクターに相談。患者を安楽死させた経験のない当時35歳の女医は「引き受けます」と、すんなりと受け入れた。「注射と毒薬と、どちらを望みますか」。躊躇せず、ウィルが答える。「注射にしてください。友達が外でパーティーをしている中で、私がなかなか死なないなんてことにならないようにね…」。オランダでは医師が注射を打ち、患者を死に至らす積極的安楽死と、患者自らが毒薬を飲んで死ぬ自殺幇助がある。スイスと異なり、患者に選択肢がある。大半は注射を選ぶという。
女医の様子が、おかしい。とどめの1本が打てない
パーティー当日。ウィルは集まった友人たちに最後の挨拶を告げた。「僕はこれからベッドに行って死ぬ。最後までパーティーを楽しんでくれ。ありがとう」。寝室には、身内の8人が招集された。女医が、ゆっくりと眠らせていく麻酔系の注射を1本、2本、呼吸を止める注射を1本と打っていく。ウィルは、うつらうつらとし、目を閉じていく。心臓を停止させる最後の注射を手にした女医の様子が、なんだかおかしい。うつむいたままのドクターの手が震えている。目からは、大粒の涙が頬を伝っている。とどめの1本が打てない。
「もう逝かせてあげてください」
夫の手を握りしめたネルが、涙をこらえながら言った。「先生、私たちは大丈夫ですから、もう逝かせてあげてください」。家族に支えられた女医は、頷き、最後の1本をウィルに打ち込んだ。心肺停止は、10分後に確認された。医師も人間。人の死を助ける安楽死といえども、医師は注射によって他人の命を意図的に終結させる。患者が感じる死の幸福を、医師が感じることはできない。女医が涙したというこの話を聞き、私はなんだか安堵した。
ベルギー編 精神病患者の安楽死と見守った義娘
先進国の中で、日本とフィンランドに次ぎ自殺が多いベルギーでは、精神病患者の最期の選択肢として安楽死が認められ、近年増加している。49歳で30年以上の躁鬱病生活を安楽死により終止符を打った男性・クン・デプリック。そのパートナー、ミア・フェルモン(53)と娘セリーナ・ブランデル(17)が、どのようにして安楽死を見守ったかリポートする。
精神病患者が安楽死するための条件
クンは、ミアの知り合いで安楽死を扱うティンポント女医との診療を開始する。クンの病気は「耐えられない痛みを持つ」ことと、「改善の見込みがないもの」と診断された。精神病患者が安楽死するための条件は、一般的にあまり認識されていない。私が学んだ特徴は以下の点だった。1)10代の頃から精神病院に何度も通うが治らない、2)自殺未遂の経験が数回ある、3)セロトニンが足りないという生物学的な問題。クンは、安楽死の条件をすべて満たしていた。
「死ねると分かった瞬間にホッとする」
クンは、セリーナに安楽死の決意を明かした。当時14歳で「普通に生きている人がなぜ死ぬのか分からなかった」というセリーナは、無理矢理自分を納得させた。安楽死を行う前夜、ヘントに住む叔母の家に連れて行かれ、クンとは「さようなら」の簡単な別れを告げただけだった。ミアとクンの2人は、安楽死の2週間前、小旅行に出かけた。「笑顔が絶えなかったですね。旅行中は、ずっと冗談を言って、私を楽しませてくれました」。肉体的、あるいは精神的に苦しむ人たちが、死を目前に見せる独特の表情だ。私がこれまで出会ってきた多くの患者も「死ねると分かった瞬間にホッとする」と語っていた。
クンはミアの腕の中で、安らかな眠りに就いた
2013年12月、安楽死当日。医師が注射を用意している間、クンは、携帯電話で、誰かにメッセージを書き込んだ。そして、注射が刺し込まれる前に、ミアの顔を見つめ、呟いた。「もし、あの世があるのなら、君に居心地の良いスペースを取っておくよ。でも、急がなくていいから…」「ありがとう、クン。じゃあ、あの世で会いましょう。愛しているわ」。医師が、昏睡状態をもたらす注射を1本打ち、次には、心臓を停止させるとどめの1本を打ち込んだ。30秒かからないうちに、クンはミアの腕の中で、安らかな眠りに就いた。
「Enjoy Your Life, Selina.」
クンには友人と呼べる仲間もいなかった。私が取材した他の安楽死のケースと比べても、彼を支えるネットワークが欠落していたように思う。「死にたい」「はいどうぞ」という単純な流れがクンを死に至らしめたような印象を拭えない。何より、純情な心を持った少女が、何の関与もできないまま、大切な義父を失ったのだ。安楽死当日、セリーナは叔母の家で、無気力と虚脱感に襲われていた。午後5時過ぎ、彼女の携帯電話が光った。「Enjoy Your Life, Selina.」。それは、クンが死ぬ寸前にセリーナに送った最後の言葉だった。
「私に、できることが何かあったんじゃないか…」
17歳になったセリーナは「成長した今だから分かるんだけど、私にだって、できることが何かあったんじゃないかって…」。「なぜ、今回、クンについて、口を開こうと決めたの?」「当時はまだ幼くて、なぜ死んでしまったのか分からなくて、心の整理が付いていなかったの。年月が経って、クンがどんな理由で死んだのか、やっと、少しずつ分かってきたので」。「どう乗り越えようと思う?」「ただ、時間が解決してくれるのを待つしかないと思う」。セリーナは、将来、医師になろうと、現在、大学進学前の勉強に励んでいる。