脚本、配役、音楽、スタッフ……映画を語る要素はいくつもあるが、インパクトという意味では印象度抜群な“濡れ場”を語らずして映画は語れない。映画コメンテーターの有村昆氏は「濡れ場は映画の華です。濡れ場があるから、映画が生き残ってきたといっても過言ではない」と語る。
日本映画において、初めて全裸になった女優は前田通子だといわれている。1956年、新東宝制作の『女真珠王の復讐』で海岸の岩の上で一糸纏わぬ姿になった。
それまでは、ヌードシーンがあってもストリッパーが代役を務めていた。しかし、後発の映画会社である新東宝は予算もなく、スターもいない。「若いのにオドオドしていない。前田君の大柄な体を売り出してみよう」と考えた志村敏夫監督が、「別に無理強いするわけじゃない」とやや遠慮気味にヌードを勧めると、前田は「やります。仕事ですから」とあっさり答えた。結果は大当たりだった。
その後も前田は『死刑因の勝利』(1957年)でストリッパー役を演じるなど裸体を武器にしていく。新東宝は三原葉子や万里昌代などの肉体派スターも生み出し、独自のエロス路線を作り上げた。
だが、1960年代に入っても大手映画会社が追随することはなかった。当時の状況を、年間500本もの映画を鑑賞する落語家の快楽亭ブラック氏が語る。
「大手の映画のヌードシーンは吹き替えばかり。肩を見せる程度でも、『脱いだ』といわれたほど。清純派のスターが肌を見せることはありませんでした」
その時代に衝撃を走らせたのが、加山雄三の『若大将シリーズ』のヒロイン役などで人気絶頂の星由里子だった。
「1967年の『千曲川絶唱』で全裸になり、手ブラをしたり、後ろ姿が映ったりしました。同じ年の『颱風とざくろ』では桜井浩子、ひし美ゆり子とのシャワーシーンがありました。売れっ子女優が脱いだ……と感慨深かったです」(同前)
1960年代にテレビが台頭し、赤字に転落していった映画会社はエロスに活路を求めていく。
※週刊ポスト2016年8月12日号