その男は、「ヌードは芸術ではない」と言い切る。加納典明、御年74歳。これまで数多の過激写真で当局の神経を逆撫でし、1995年には逮捕されたこともある。それでも、女性の裸体を撮り続ける理由とは──。
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女性のヌードは反権力だ。ヌードすることによって反権力になる。人間なんて綺麗なだけの生き物じゃないだろう。綺麗事なんてクソ食らえ。だから俺はみんなが口にするのを憚る“劣情”をわざと突き付けてやる。パンティが食い込んだケツを見せてやるんだ。俺の写真は芸術なんかじゃなく、社会に向かって投げる160kmの豪速球だ。アジテーション、つまり社会にケンカを売ってるんだな。
俺はこう言い続けてきた。「お前たち、勃起しろ。ついでに精神も勃起しろ」と。そうすれば何か起こるだろうと思っている。
女の裸ほど直球のボールはない。女性の裸というのは、被写体としては一番わかりやすくて一番インパクトがあるんだよ。だから「これ、いいのかな」と思わせるくらいのものじゃないと意味が無い。「キレイだな」じゃしょうがない。
だから俺はモデルや女優ではなく、素人に近い女性を撮りたい。危険でいやらしく、普通の若い女を撮りたいんだ。性とは、清濁併せ持つ人間の汚い部分を突き付けるものだ。非常に根源的で、恐ろしく多様性を秘めた猥褻というものこそ、一番人間らしい。
その猥褻の範囲を決める、線を引くための基準を設けるなんて、ナンセンスもいいところだね。ご存知の通り、俺は1995年に写真集『ザ・テンメイ総集編きクぜ!』で逮捕されている。
掲載された写真が猥褻だっていうんだよ。12日間勾留され、検察ともさんざん話したが、じゃあそちらの言う猥褻って何ですかって聞いたって答えなんて出やしない。まったく議論にもならないんだよ。最後は女性器の絵にマーカーで楕円描いて、この中には入るなと。結局、御上意識なんだよ。