『大津絵 民衆的諷刺の世界』/クリストフ・マルケ 著/楠瀬日年 絵/角川ソフィア文庫/1400円+税
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
大津絵は東海道五十三次・大津の宿外れで売っていた民衆的な一枚絵。江戸初期から明治にかけて、旅土産として人気があった。神仏画に始まり、しだいに軽妙な戯画が多くなった。墨に淡い丹(赤)や緑、黄で彩色。量産品であって、街道に旅人が消えるとともに大津絵も忘れられた。
柳宗悦などの民芸研究者、あるいは梅原龍三郎や麻生三郎や岡本太郎といった二十世紀の洋画家たちが大津絵の魅力に気づいた。稚拙に見えながら、絵柄にそなわる「強烈な自由さ」は、何をおいても大津絵独自のもの。
フランスの日本学の先生は京都の老舗古書店で版画集を手に入れて以来、大津絵に「ハマっていった」という。まずフランス語版を出し、その日本語版を手にしやすい文庫スタイルにしたところが大津絵にぴったり合っている。
楠瀬日年という篆刻家がいた。明治・大正が生んだ大教養人だろう。大津絵の散逸・消滅を惜しんで代表的な画題を木版と型紙で制作し、わかりやすい解題をつけた。それがそっくり収めてある。天下の超希覯本を丸ごといただいたわけで、こんなお得な買い物はない。
「雷と奴」は人気のあったテーマの一つだった。大名行列の供先をつとめて威勢のいい奴だが、ここでは雷が怖ろしくて盥(たらい)をひっかぶってふるえている。お殿さまの威をかりて虚勢を張っていても、根は小心者を、職人衆は街道筋でよく見ていたのだろう。
これも人気の画題の一つ、若いイケメンが黒馬に乗っているポートレート。着物の袂が女性のように長いのは、「延宝頃から元禄にかけて流行した風俗」だという。型どおり手早くやっつけているぐあいでも、おのずと時代が描きこまれていくものだ。
ピカソのコレクションには、大津絵が含まれていた。ジョアン・ミロは、ひと目見て心を奪われた。そんなエピソードをまじえる著者のゆたかな眼差しがうれしい。気がつくと、素朴な民衆画が、やにわに宇宙的なひろがりをみせてくる。
※週刊ポスト2016年9月16・23日号