空襲で焼け野原となった首都・東京。玉音放送が流れた1945年8月15日正午、炎天下の中で見上げると抜けるような青空が広がっていた。満足な食糧や衣服も手に入らず、途方に暮れる人々。だが、『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版刊)には、復興に向けて歩み始めた日本人の姿が鮮やかに浮かび上がる。
「収録した840点はすべて日本人が撮影した写真で、約750点は未公開です。終戦後の約1年間、日本人は想像を絶する厳しい生活を強いられましたが、一方で地域の実力者など経済的に恵まれた人たちもいた。この写真は、破壊された街並みの中で復興を始めた東京の偽らざる姿なのです」(共同編者の東京大空襲・戦災資料センター主任研究員・山辺昌彦氏)
我々が普段目にする終戦直後の風景は、GHQ(連合国軍総司令部)にとって都合のいい写真、すなわち、占領政策が成功裏に遂行されていることを示すために「従順な日本人」を写したものばかりだった。しかし、日本人の目から見た当時の東京は違っていた。
「撮影したのは、写真家・木村伊兵衛やグラフィックデザイナー・原弘(はらひろむ)が所属し、戦時期に陸軍参謀本部の下で対外向けの写真宣伝物を制作していた出版社兼写真工房である東方社でした。東方社は東京大空襲で解散を余儀なくされましたが、終戦直後に設立された文化社が後を引き継ぎました。
その文化社も経営に行き詰まり、わずか2年で解散、“幻の出版社”と呼ばれています。しかし、社屋には1万8000点もの写真ネガが残され、5年前に東京大空襲・戦災資料センターに寄贈されました」(山辺氏)
同センターは受け取った写真を研究・分析し、東方社のカメラマンだった林重男氏と菊池俊吉氏らの写真も加え、終戦直後の東京の復興と暮らしに絞って写真集にまとめた。そこには、祭りや社会事業施設の内部など、GHQが見向きもしなかった日本人の日常生活が活写されていた。
空襲で焼け跡と化した東京の街には、戦後間もなく露店が軒を連ねた。銀座から京橋、日本橋、さらには神田、上野、浅草、ターミナル駅だった新宿、渋谷の風景や、そこを歩く人々の表情や服装の華やかさは、復興のスピードが想像以上に早かったことを伝えている。
繁華街では、地元有力者が中心となって復興祭が行なわれた。どの地区も空襲で大きな被害を受けていたが、潜在的な経済力を持っていたのだ。復興祭は、そんな地区の人々が自らの力で復興を遂げる覚悟と意気込みを示すものだった。街頭では、天然痘の流行に対応して主要駅の駅前などで予防接種の種痘を受ける場が設けられた。また、ツベルクリン反応検査やレントゲン撮影など、結核予防への対策も講じられていた。