【書評】『兵隊になった沢村栄治 戦時下職業野球連盟の偽装工作』/山際康之 著/ちくま新書/880円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
沢村栄治は、エースとして戦前の巨人軍をひきいた大投手である。合計三度の兵役もつとめ、三度目の出征にさいしては、南方の洋上で戦死した。今のプロ野球が、その功績と悲劇を顕彰するべく、沢村賞という褒章制をもうけていることも、ひろく知られている。
さて、沢村は三度目の召集にのぞむ前ごろから、投手としての能力をおとしていた。そのため、巨人軍からは馘首、クビをつげられている。その意味で、このチームから軍隊が沢村をうばったというふうには、言いきれない。巨人は、軍隊からとりあげられる前に、自ら沢村をすてていたのである。
巨人から見かぎられた沢村は、大阪の南海軍に身をよせている。南海の選手といっしょに、練習をしてもいた。南海での再起を考えていたことは、うたがえない。軍隊から沢村をとられた球団があるとすれば、それは南海以外にありえないのである。
ざんねんながら、こちらの話は世にほとんど知られていない。読売新聞と日本テレビが、よってたかって沢村の物語を、巨人の悲劇にしたてていった。そのため、南海とかかわる話のほうは、すっかり忘れられている。
著者は、沢村栄治に目をむけつつ、戦前戦時のプロ野球、当時の職業野球をふりかえる。その作業をつうじて、野球界が戦時体制下を生きぬくために講じたあの手この手を、ほりおこす。たとえば、球場で手榴弾投げの競技を、余興としてこころみたことなどを。
学徒動員がはじまる前まで、大学生は兵役を猶予されていた。職業野球側は、その特権に目をつけ、選手を大学へおくりこんでいる。それを経営的打算でうけいれる大学側の動きも、この本では明らかにされていく。野球好きには耳の痛い話も多いが、読み物としてはたいへんおもしろい。
ただ、戦後の読売グループが沢村栄治を神格化していくからくりは、問われなかった。解雇をかくしたメディアの力に私はこだわるが、著者の興味はそこになかったようである。
※週刊ポスト2016年9月30日号