“越後の龍”、“甲斐の虎”と並び称された宿命のライバルである上杉謙信と武田信玄。『週刊ポスト』2016年7月22・29日号で、両家の直系子孫である上杉家第17代当主・上杉邦憲氏と武田家第16代当主・武田邦信氏の初対談が実現した。「川中島の戦い」から450年の時を経て、“龍虎”が再び相まみえる──。(2016年9月24日更新)
上杉家・武田家の当主の現在
上杉氏はJAXAを経て、民間の宇宙事業機関の理事長
上杉家第17代当主・上杉邦憲氏(73)は東京大学大学院卒業後、文部省宇宙科学研究所へ。その後、宇宙航空研究開発機構(JAXA)でロケットの開発に従事、現在は民間の宇宙事業機関の理事長を務める。
上杉氏のメールアドレスは「TONO」
上杉:あだ名がずっと「殿」でした。小さい頃は「バカ殿」でしたけど(笑い)。アメリカのNASAの研究所に留学した際、現地の人が「UESUGI」がうまく発音できないので、ニックネームが日本時代と同じ「TONO」になった。だから自然にメールアドレスも「TONO」に。いまさら変えるわけにもいかず、以来30年間そのままなんです。
武田氏は大手商社を退職後、国連UNHCR協会の理事
武田家第16代当主・武田邦信氏(68)は大手商社を退職の後、法務省人権擁護委員、国連UNHCR協会の理事を兼務。また武田家当主として家臣団をまとめる「武田家旧温会」の最高顧問でもある。2人とも、さすが名家出身というべき輝かしい経歴の持ち主である。
会うのは初めて 父親同士は交流あり
上杉:私たちがお会いするのは初めてですよね。 武田:本家ではない上杉家の方とお会いすることはあるのですが……。私の父と上杉さんのお父様とは交流があったようです。父は居酒屋で酒を酌み交わした写真を亡くなるまで大切にしていましたから。年賀状のやり取りもしていた。 上杉:父親同士がNHKのクイズ番組『私の秘密』で共演したことから両家の交流が始まったんですよね。その後、私自身も武田さんのお父様と雑誌の企画でお会いして。川中島の一騎打ちの銅像の前で並んで写真を撮りました。 武田:それまでは両家の交流はなかったけれど、父の代で関係を復活させた。
上杉・武田両家と、戦国武将の末裔の関係
両家の間には、現在も遺恨はあるのか?
──両家の間には、現在も遺恨はあるのか? 武田:いえいえ。信玄公は「武田に何かあったら上杉を頼れ」と遺言を残しています。信玄公の六女・菊姫は謙信公の後継者である景勝公の正室として嫁ぎ“甲州夫人”と呼ばれ慕われていた。また信玄公の六男・信清は、その言葉通り、兄・勝頼公が自害した後、菊姫を頼って越後へと赴き、上杉家の家臣となっています。親戚関係でもあり感謝こそあれ、恨みはありません。 上杉:信清さんは上杉家でも「高家」と呼ばれる非常に高い身分の方として扱われた。お墓も上杉家代々の菩提を弔う『林泉寺』に置かれ、直江兼続の墓の隣にあります。上杉家とは身内同様の関係でした。
山梨では上杉家は尊敬されている
〈山梨県笛吹市では「ふるさと納税」の寄付額によって、春の祭り・川中島合戦戦国時代絵巻で信玄役、謙信役を演じる権利を得ることができる。だが、その額は信玄役が100万円、謙信役は50万円と大きく差がある〉 上杉:信玄公のお膝元の山梨ですから不満はありません。米沢で『川中島の模擬合戦』をやれば、上杉勢をやりたい人ばかりですが、武田勢はなかなか集まらない。山梨では反対になるんでしょうけど……。 武田:いやいや、そんなことはない。山梨では上杉家は尊敬されていますよ。でも、これが織田家となると、また話が複雑になってくるのですが(苦笑)。
上杉氏「徳川宗家の当主とは時々酒を飲む仲」
上杉:上杉家の場合、各大名家と必ずどこかで繋がっている。今の徳川宗家の当主とは母同士が姉妹(邦憲氏の母は徳川家17代目・家正氏の次女)なので従兄弟同士です。ここが一番近い間柄で時々酒を飲んだりします。戦国大名は血を絶やさないように子供が何十人もいたりする。その子たちを別の家に養子に出したり、嫁がせたりする。ですから大名家は婚姻関係をたどるとみんな親戚になるんです。
武田氏「織田家の子孫の方とは毎年お会いしています」
武田:織田家といえば、あちらの子孫の方とは『長篠の戦い』の慰霊祭で毎年お会いしています。他の戦国大名では、昨年は徳川家康公薨去400年だったので、徳川宗家とはよくイベントでご一緒しました。あとは前田(慶次)家なども交流を持っています。
有名大名の末裔として生まれて
できるだけ末裔とは言いたくない
上杉:子孫だということはなるべく言わないようにしています。何せ名前が重い。私は疎開して米沢(山形)の小学校に通っていたのですが、上杉家の城下町なだけに担任教師も謙信公を尊敬していて「お前は謙信公の子孫なのに何をやっているんだ」と叱られる。子供の頃はそれが嫌でしょうがなかった。それに知られた時の周囲の反応が面倒くさい。「世が世なら側にも寄れませんな」なんて言われると、もう鬱陶しい。 武田:同じですね。まあ、私はそう言われたら「もう一度、その時代に戻りたいな」とチクチク返していましたけど。 上杉:ワハハ! しかし実際のところ、知られたくないというのが本音です。だから自分から「○○の末裔」と売り込んでくる人は怪しいと思ったほうがいい。
「なんだ武田の御曹司は」と言われないよう言動に注意
武田:末裔ならではの気苦労もあります。武田家には、いまも家臣団がありまして、「うちの先祖は二十四人衆の誰々だ」とか、皆それぞれ信玄公の家臣だったことを誇りに思っている。それを潰さないように生活しなければならない。「なんだ武田の御曹司は」と言われないように言動にも気をつけています。 上杉:それは私もまったく一緒です。上杉家には家臣団はありませんが「まわりを大事に」というのは謙信公以来、代々伝わる家訓で、時代は変わってもその心は続いています。
人前で酔っ払うのはOK
──恥ずかしい振る舞いはできない。人前で酔っ払ったりするのもダメですか? 上杉:それは別ですね(笑い)。当主というのは酔っ払った方がいい。みんなが安心するから。しかも上杉家は酒豪で知られる謙信公以来、酒は強い。私ですか? 酒が強くなければ当主はやってられません。 武田:私はまあまあですけどね(笑い)。
女性関係について謙信と信玄の血は受け継いでいる?
──謙信は「不犯」を掲げ、生涯女性と交わらなかったという伝承があり、信玄は性豪とも言われる。その血は受け継いでいる? 上杉:そういうことは考えたこともありませんね。 武田:性豪といっても戦国武将がたくさんの側室を持つのは血を残すため。何も、快楽ばかりが目的だったわけではないでしょう。でも、私の場合は「もう一度、そういう時代に戻りたい」と言っておきましょう。 上杉:ワハハ!
代々伝わる家宝
──歴史深い両家だけに、代々伝わる家宝がある? 上杉:私が気に入っているのは、織田信長から贈られた『洛中洛外図屏風』です。これは、何度見ても本当に素晴らしい。 武田:私は、今日持ってきました。信玄公の父・信虎公が正室のために京都で打たせた懐剣です。『備前長船清光』です。約500年前の天文10年に打たれた刀です。 上杉:刀といえば、いま日本刀を愛好する“刀女子”というのがブームです。『刀剣乱舞』という刀を擬人化したゲームが流行っていて、謙信公の刀もキャラクター化されているの。『五虎退』という小さな刀なんだけど、それが去年ぐらいから有名になって。博物館に展示してほしいと言われている。
川中島の戦いで勝ったのは? 両当主の見解
武田家当主「最も激戦だった戦いで、最後に勝ちどきをあげたのは武田」
──最後まで決着が付かなかったと言われる「川中島の戦い」だが、実際はどちらが勝ったと思っていますか? 武田:こちらとしては、最も激戦だった第四次の川中島の戦い(1561年)で、最後に勝ちどきをあげたのは武田だ、ということです。武田と上杉では信濃の土地に対する考え方が根本的に違う。甲斐の国というのは何もなく、信玄公は人民を養うために米が育つ肥沃な土地が必要だった。だから村上攻めをせざるを得なかった。
上杉家当主「謙信公は負けたとは全然思っていない」
上杉:領土としては土地を手に入れた武田の勝ちかもしれませんが、上杉は負けたとは思ってない。そもそも謙信公には支配拡大の欲はなく請われて“義の戦い”をしただけです。 武田:謙信公は村上に頼まれて戦をしただけで、あそこの領土が必要だったわけではない。 上杉:だから、考え方の違いです。謙信公は負けたとは全然思っていない。むしろ怪しからん武田を懲らしめたと思っている。村上(義清)ら信濃勢との義は果たしたわけですから、何なら勝ったと思っていますよ(笑い)。
信玄と謙信の一騎打ちはあったか?
武田:2人の一騎打ちはあったと思いますか? 上杉:それはわからないですね。史料には「(謙信)自ら立ちはだかり」というものもありますが、総大将が、自ら敵陣に乗り込むような危険を冒すかという疑問は残ります。 武田:ただ、信玄公の軍配扇に傷がついていたことは事実。どうせ本当のところは分からないんだから、謙信公自身が乗り込んできて、3度切りつけたという方が面白いですよね。
武将として、どちらが強かったか?
上杉:武将として、どちらが強かったかというと、そこは難しい……。強さと言ってもいろいろある。武力なのか知力なのか他の要素なのか様々ですから。 武田:2人とも全然タイプが違うから。 上杉:(信玄を)武士として認めていたのは確かだと思うんです。 武田:はい。好敵手であったことは間違いない。 上杉:2人は近すぎた。同盟軍で戦ったら最強だったはず。まあ、私はそれでも一番強いのは謙信公だと思っています。 武田:それじゃあ私は信玄公にしておきましょうか(笑い)。
謙信・信玄の俗説や、演じた俳優について
『実は謙信は女性だった』という説の真偽
〈両雄ともにまことしやかに囁かれる俗説がある。「実は謙信は女性だった」という説に「信玄は病人で今に残る絵姿などは、すべて影武者のものだった」というものだ〉 上杉:『女性説』はよく言われることですが、我が家に伝わる史料から見てもありえません。
信玄公の『病人説』は事実の部分もある
武田:信玄公の『病人説』については事実の部分もありますよ。信玄公は実際に労咳で亡くなっている。川中島の時はわかりませんが、亡くなる数年前からは本当に病気だったと伝えられている。勝頼公が武田家を継ぐと言っても、側室の子でしたから統率が取れていない。だから自分が動ける間に敵を排除しておきたかった。それで三方ケ原で徳川を叩いて、さあ次は織田という時に、志半ばで亡くなってしまった。だから、あの銅像も実際のお姿だったのかどうかもわからないですね。
謙信役で良かったのは『天地人』の阿部寛
上杉:ドラマ自体、あまり観ないですね。役者によってイメージが違う時があるし、歴史を知る者としては違和感を覚えることもあるから。これまで謙信公を演じた役者では大河ドラマ『天地人』(NHK)の阿部寛さんが良かった。想像しているイメージに近い感じがしました。
『天と地と』の津川雅彦が信玄のイメージにピッタリ
武田:現在放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』は観ているけど、勝頼公が自害する第2話は心情的に観ることができなかった。でも後から「あの回の勝頼公はとっても素晴らしかった」という評判を聞いてね。「ちくしょう!観ればよかった!」ってね。 想像している信玄公のイメージに近いのは、映画『天と地と』での津川雅彦さんですね。私の中での信玄像って、甲府駅前の銅像なんです。ふくよかな、どっしりした雰囲気。あれに近かった。
対談を終えて
武田:今日、こうして初めてお会いしてお話をして。先祖たちはライバルですけど、“家”を背負うもの同士、通じ合うものがあった。 上杉:いやいや、おっしゃる通りです。 武田:今度は2人で盃を交わしたいですね。 上杉:いいですね。その時は川中島で(笑い)。