自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか──。日本サッカー協会顧問の釜本邦茂氏(72)が、「母の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。
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母は、とにかく亡くなる直前まで、元気いっぱいでした。
大正生まれの母は一言でいえば、「ハイカラ」な人。マニキュアなんて当たり前で65歳にして耳にピアスの穴を開けて、70歳から日本舞踊を習い始めました。
ちょうどその頃、千葉で2人暮らしをしていた両親が老老介護にならないか気がかりで僕の住む大阪に呼んだのですが、80歳を超えてもラメ入りのド派手な服を着て、僕の家内に「派手になって着られなくなったお洋服は私にちょうだいね」とよくねだっていた。
そんな母は90歳だった2002年の年末、自宅でトイレに行くときにコタツのコードに足を引っかけて転倒し、腰を痛めて寝込むようになりました。
年が明けて、心配した僕と家内は僕の家から10分ほどの距離に住む母を見舞い、「いつも寝てないで歩く練習もしてね」と声をかけました。テーブルで苺を食べていた母が、僕たちが帰る直前、「少し寝る」と布団に入ったことを覚えています。それが、母から聞いた最後の言葉です。
母を見舞った後、僕はサッカー日本代表の五輪予選の団長としてチームに同行するため、関西国際空港に向かいました。先に帰宅した家内が念のため両親に電話すると、電話口で父が「婆さん(母)が起こしても起きてこないんだよ」と心配した声で話したそうです。
慌てた家内は「救急車を呼んだほうがいい」と父に告げましたが、布団の中ですでに、90歳の母は眠るように息を引き取っていました。知らせを受けて僕も急遽、関空から引き返したけど間に合わなかった。2003年のことです。
33歳の厄年で男の私を産んだことを生涯、自慢していた母は、「邦茂が出世したら私の手柄よ」というのが口癖でした。亡くなったときに改めて、“母が思っているような出世ができたのか”と思いを巡らせましたが、答えは出ません。ただ、要所で父を説得して、やりたいようにやらせてくれた母には感謝の思いばかりでした。