12月のロシア、プーチン大統領の訪日を控え、北方領土返還交渉が熱を帯びている。北方領土をめぐる交渉は東西冷戦構造の中で、日本が大国の事情に翻弄されてきた歴史がある。
最初は1956年10月、鳩山一郎内閣の「日ソ共同宣言」だ。同宣言で旧ソ連との戦争状態の終結と外交関係の回復が決まり、平和条約締結後に、「歯舞、色丹の2島を日本に引き渡す」ことが盛り込まれた。しかし、米国の横槍が入る。元外務省国際情報局長・孫崎享氏の解説。
「米国のダレス国務長官が重光葵・外相に『日本が国後、択捉をソ連に帰属させる(=歯舞、色丹の2島で合意する)なら、米国は沖縄を返還できない』と警告した。世にいう“ダレスの恫喝”です。
一方、その4年後に岸信介内閣が日米安保条約を改定(1960年)すると、今度は反発したソ連が『日本からの全外国軍隊の撤退がなければ歯舞、色丹は返還できない』と通告、交渉は暗礁に乗り上げました」
1973年には田中角栄・首相がソ連を電撃訪問、「両国間の未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という日ソ共同声明が発表されたが、領土交渉の進展はなかった。
米ソ対立が雪融けに向かう冷戦終結期以降は、何度かチャンスが訪れるが、やはり浮かんでは消えた。
ソ連が経済危機に陥った1991年3月、自民党幹事長だった小沢一郎氏がソ連を訪問、ゴルバチョフ大統領と“経済協力で北方4島を事実上買い取る”という秘密交渉を行なう。しかし、ゴルバチョフが決断できないままソ連は崩壊。ロシア連邦が成立した。
1997年には、橋本龍太郎首相がロシアのエリツィン大統領と2000年までに平和条約締結を目指すクラスノヤルスク合意を結ぶ。翌1998年には「択捉島とウルップ島との間に両国の最終的な国境線を引く(4島返還)。合意までの当分の間、4島へのロシアの施政権を認める」という思い切った提案(川奈提案)をしたが、政権末期だったエリツィンは決断できず、橋本首相も参院選敗北で退陣した。
エリツィンから後継指名を受けたプーチン大統領は領土交渉に積極的で、2001年に森喜朗首相との間でイルクーツク声明(※注)を出した。
【※注/日ソ共同宣言が交渉プロセスの出発点と確認し、北方4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するため、今後の交渉を促進することなどで合意した声明】
だが、ほどなく森首相はスキャンダルで退陣。続く小泉純一郎内閣は米国が主導したイラク戦争に参戦してロシアとは距離を置き、対露領土交渉を担ってきた鈴木宗男氏らがこの時代に失脚に追い込まれた。
その後の第1次安倍内閣、麻生太郎内閣も領土交渉に意欲を見せたが、いずれも短命政権に終わり、成果をあげることは出来なかった。
この返還交渉史に終止符が打たれる日は来るのか。
※週刊ポスト2016年10月14・21日号