【書評】『〆切本』/左右社編集部編/左右社/2300円+税
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
〆切……なんと胸の痛む言葉だろう。本書は、期日に追われるすべての人にとって、恐怖の本だ。なのに、総毛だったままページを繰る手が止まらない。最高のサスペンス本でもある。
執筆者は、夏目漱石、谷崎潤一郎から、稲垣足穂、太宰治、野坂昭如、谷川俊太郎、村上春樹、藤子不二雄(A)、西加奈子まで九十人。〆切がいかに理不尽で、いかに人間の心を踏みにじり、粉砕し、いかに姑息な言い訳を考案させ、しかし、いかに人を蘇生させ、前進させるものであるかを綴った文章が隙間なく並んでいる。
田山花袋は追いつめられて、「筆と紙と自分の心との中に悪魔が住んでいる」と、「エクソシスト」みたいになり、井上ひさしは「殺してください」と言う。吉田健一は「何のために自分がそんな目に会わなければならないのか」と被害者意識丸出し。
内田百閒は年内の借金返済のために〆切を守ろうとするが、借金なんて返さなければいいだけだと気づき、一文字も書かずに除夜の鐘を聞く。野坂昭如は肋骨のヒビの痛みでなんとか眠らずに書きあげるという壮絶さ。
第II章の「敵か、味方か? 編集者」は、書き手と担当者の駆け引きと関係が、もう正視できない程どろどろとしており、高田宏の項などホラーの域を超えている。一方、第III章の「〆切なんかこわくない」は筆者全員が〆切に遅れたことなどない、二十日位前に必ず仕上げると豪語する人たちなので、これまたホラーである。
ジャック・ラカンは「〆切」を早めに設定する、つまり精神分析のセッション時間を短くすることで効果を上げたそうだし、米原万里は〆切やテーマの「制限」がある、すなわち不自由な方が自由になれる、と言う。そう、〆切にも効用があるのだ、と本書はそういう方向にまとめていく。
とはいえ、筆者が書けない書けないとのたうち回る前半の方が矢張りおもしろい。斯く云うわたしも〆切を過ぎてこの原稿を書いているのですから、仕様のないものであります。
※週刊ポスト2016年10月28日号