横浜一筋25年。大洋ホエールズ時代、そして1998年の日本一を知る最後の選手だった「ハマの番長」こと三浦大輔投手(42)が現役生活に別れを告げた。四半世紀にわたる「横浜愛」は美談として語られがちだが、投げても投げても勝ち星がつかない弱小球団に対して憤懣やる方ない思いを抱いた時期もあったという。
横浜は監督の入れ替わりも激しかった。三浦が在籍した25年間で、代行監督も含めて13人もの指揮官が誕生している。ちなみに同時期の巨人は5人である。
「そんなにいましたか?(笑い)まァ、大事なのは選手ですよ。僕は監督が誰になっても使ってもらえる投手になろうと頑張ってきましたから。
僕が残留を決めた後も、そう簡単にチームは変わらなかった。谷繁(元信/2002年にFAで中日へ)さんの後にレギュラー捕手になった鶴岡(一成/2008年にトレードで巨人へ)、相川(亮二/2009年にFAでヤクルトへ)までいなくなり、バッテリーがなかなか機能しなかったのも事実。ただ、彼らが移籍したことで若手が伸びて、チーム全体の底上げができたとも言えます。その間、ファンからは“横浜高校より弱い”とヤジられたこともあったけど、着実にチームは進歩していたんです」
その言葉通り、今季の横浜はCS初出場を決め、ファーストステージで巨人を撃破。広島と日本シリーズ進出を争うまでに成長した。
その広島には、三浦と同年代の黒田博樹がいる。2人は万年Bクラスのチームで孤軍奮闘してきた生え抜き投手として、比較されることも多い。
「彼はメジャーで素晴らしい成績を残している。確かに比べられることも多いけど、僕よりも上の投手ですよ。そもそも僕は他の投手と比較するのが好きじゃない。自分が決めた道を自分の責任で突き進む。それだけです」
プロで積み重ねた勝ち星は172(184敗)。もし2008年のFA宣言時に阪神に移籍していたら、200勝を達成して名球会入りできたのではないか、という声もある。
「“たられば”は嫌い(笑い)。でも、それはないですよ。他球団に移籍していたら、もっと早く引退していた可能性もありますから。横浜にいたから25年間も投げられたんです。引退セレモニーの時、ファンの歓声を聞いて体が震えた。僕は横浜を愛していましたけど、それ以上に、横浜に、ファンに愛されていたんだと感じました。ファンがいたからこそ、ここまで投げられた。あの時、横浜に残って本当によかったと思っています」
今季の横浜は、チケットが取れないほどの人気球団に生まれ変わった。
「出て行きたい球団」とも呼ばれた状況から、三浦が目指す「入りたい球団」へ──。その変化を見届けて、“番長”は25年間守り続けたマウンドを去る。
撮影■ヤナガワゴーッ!
※週刊ポスト2016年10月28日号