我々は歴史の教科書等により偉人の顔を想像することはできるが、身長や体重についてはまったく未知だ。
しかし『日本史有名人の身体測定』(KADOKAWA)の著者で、歴史小説家で現役の整形外科医でもある篠田達明氏は、肖像画や衣服、甲冑、書物、さらには上腕骨の長さなどから偉人の体型を推定している。歴史上の偉人たちは、どんな体型だったのか。(2016年10月22日更新)
古代~飛鳥時代
歴史上の偉人の身長・体重調べる整形外科医 その算出方法
『日本史有名人の身体測定』(KADOKAWA)の著者・篠田達明氏は「体型」を推定する際、さまざまな方法を使う。
古代の偉人は古事記や日本書紀といった古文書や肖像画はもちろん、衣服や甲冑、家族や友人など周囲の人が書き記した書物も参考になる。
幕末以降は写真が残っている人物もいる。また整形外科医の篠田氏ならではの算出方法もある。
「人の上腕骨と身長の関係について〈男性の身長=上腕骨の長さ×2.8+73cm〉、〈女性の身長=上腕骨の長さ×2.5+79cm〉の公式がある。衣服や絵画から上腕骨の長さを推定し、身長を割り出す」
ヤマトタケル 197cm、90kg「抜群の行動力を持った美丈夫」
「古代の英雄・ヤマトタケルは『日本書紀』に身長が1丈(10尺)とある。古代の1尺は約20cmなので身長197cm、BMIを約23と推定して体重90kgと算出。元気はつらつで抜群の行動力を持った美丈夫でした」(以下「」内は全て篠田氏)
聖徳太子 180cm、78kg「平均身長160cmの飛鳥時代では大柄」
「聖徳太子の身長は180cm、78kgと推定しています。平均身長が160cmの飛鳥時代では大柄。根拠となったのは法隆寺の夢殿に保存されていた救世観音です」
この観音像は聖徳太子の等身大であると伝えられてきたが、1000年以上、秘仏として布に巻かれたままだった。「開封すると呪われるという言い伝えがあったため」。だが、明治時代に米国人の東洋美術史家・フェノロサが永い眠りを解き、聖徳太子の身長が判明した。
平安・鎌倉時代
紫式部 145cm、50kg「かなり肉付きが良い太めの不美人」
「平安時代の宮中の恋愛を綴った『源氏物語』で知られる紫式部ですが、実際はかなり肉付きが良い太めの不美人という評が残っています。絵画などから145cm、50kgと推定しました。不美人が故の性的フラストレーションを執筆によって昇華させたのかもしれない」
源頼朝 155cm、60kg「ずんぐりむっくり体型」
鎌倉幕府を開いた兄の源頼朝は偉丈夫なイメージが思い浮かぶ。
「教科書などに掲載されている肖像は別人で、甲斐善光寺が所蔵する木像が本人であるという説が有力。その木像の体型はずんぐりむっくり。そこで、源兄弟はともに小柄だと判断し、頼朝は155cm、60kgと結論づけました」
源義経 147cm、47.5kg「古文書に『義経はチビだ』と記載」
“牛若丸”と呼ばれた源義経は小柄で飛ぶように戦うイメージが強い。
「古文書の記述で『義経はチビだ』という悪口が残っているのと、一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま断崖絶壁を駆け下りて平家を奇襲した際、俊敏に身をこなしていることからも、やはり小柄だった。また愛媛県の大三島には義経が着用した鎧も現存。そこから147cm、47.5kgと推測した」
武蔵坊弁慶 208cm、100kg「伝承では母親の胎内に18か月いた」
京の五条大橋で義経に敗れて以来、義経の忠実な家来として仕えた武蔵坊弁慶は力自慢の大柄なイメージ。
「伝承では母親の胎内に18か月もおり、誕生時には黒髪が肩まで垂れ下がり、歯も揃っていたと言われている。伝承通りだとすると、208cm、100kgと仁王のような巨体だったようです」
戦国時代
上杉謙信 160cm、80kg・武田信玄 162cm、75kg「意外とメタボ」
川中島の合戦をはじめ、ライバルとして知られる上杉謙信と武田信玄には、意外な共通点があった。
「上杉謙信は肖像画や着衣の寸法などから160cm、80kg、武田信玄も鎧などから162cm、75kgの肥満体だったと推察できます」。日本を代表する二大武将は、まさかのメタボだった。
織田信長 170cm、61kg「比較的健康だったが実は下戸」
天下統一へ導いた「三英傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にも思いがけない事実があった。
「信長は170cm、61kgという引き締まった体で比較的健康だったようですが、実は下戸という説もある」。戦国ドラマでは、信長が家臣と酒を酌み交わすシーンをよく見かけるが、どうやら史実ではなさようだ。
豊臣秀吉 140cm、45kg「超小柄で127 cmという記述も」
「一際小さかったのは秀吉。彼と会ったオランダ商館長のティチングは50インチ(127cm)と書いているが、さすがに小さすぎる。その他の書物の記述などを参照して、140cm、45kgという超小柄だったと割り出した」
秀吉は側室の淀殿より28cmも小さかったということになる。
徳川家康 159cm、70kg「肩幅の広い肥満体だが長生き」
江戸幕府を開いた徳川家康の体型は想像通りだ。
「徳川幕府の歴代将軍は死後、身長と同じ高さの位牌を大樹寺に納められる。そこから身長は159cm、70kgと推測した。肩幅の広い肥満体ですが、節制して75歳まで長生きしている。慎重な性格からか、生モノには一切口をつけず、性病を恐れ、遊女も遠ざけたと言われている」
加藤清正 159cm、65kg「身長2mという伝承も」
肥後熊本城主の加藤清正は、美髯馬面の豪傑で、身長2mという伝承もある。
「清正はいつも高烏帽子をかぶり、身長を高く見せることで相手を威圧していた。肖像画の着衣から推定すると、実際は159cm、65kgしかありません」
伊達政宗 159cm、70kg「右目は実は見えていた」
独眼竜で知られる伊達藩主・伊達政宗にも意外な事実が隠されていた。
「昭和期に遺体の調査が行なわれ、159cm、70kgと分かった。体型以上に驚いたのが、失明していると思われていた右目は、実は問題がなく、痘瘡の後遺症でまぶたが癒着し開かなくなっただけということです」
淀殿 168cm、65kg「女性の平均149 cmを大きく上回る高身長」
「秀吉の側室で秀頼の母・淀殿は女性の平均身長が149cmの戦国時代に168cm、65kgの大柄な女性だったと伝えられる。180cmを超える巨漢だった父・浅井長政の遺伝でしょう」
豊臣秀頼 180cm、80kg「浅井家の血を受け継ぐ巨漢」
篠田氏が「実は家康が恐れていた」と言うのが、豊臣秀吉の後継者・豊臣秀頼だ。
「秀頼も浅井家の血を色濃く受け継いだようです。古文書には、『六尺豊かで目元涼しく、気品に満ちた面立ちの見栄え良い青年』と残っており、180cm、80kgのがっしりした体躯。家康は秀頼と面会した際、カリスマ性を感じ、脅威を覚えて、豊臣家滅亡へ急いだとも言われている」
江戸時代前期
水戸光圀 170cm、75kg「実は助さん格さんより大柄だった」
江戸時代の平均身長は低くなり157cmほどだ。人気ドラマ『水戸黄門』(TBS系)のモデルとして知られる徳川光圀は、“小さな老爺”という印象が強いが、実は170cm、75kgと、この時代にしては大柄だった。
「古文書に『色白で背が高く、肩幅広く面長』とあるほか、肖像画の衣服などから推定した。ドラマでは大きな助さん、格さんに挟まれる黄門さまですが、実際は3人の中で一番大きかったかもしれない。また並外れた酒豪の食道楽で、明国からの亡命者に教わり、ラーメンや餃子も堪能していたそうです」
徳川綱吉 124cm、40kg「職人がわざと小さく位牌を作った可能性も」
「生類憐れみの令」で犬公方と呼ばれた五代将軍・徳川綱吉は124cm、40kgしかなかった。将軍が亡くなると等身大の位牌が作られるため、間違いないのだろうが、あまりにも小さすぎる。
「綱吉は『生類憐れみの令』で、江戸の人たちに苛烈な迷惑をかけた。職人が意趣返しとして、わざと小さく位牌を作った可能性もあるとみています」
松尾芭蕉 161cm、47kg「かなり痩せ気味」
『おくのほそ道』で知られる俳人・松尾芭蕉。全行程約600里(約2400km)を歩いた健脚だが、実際は華奢だったという。
「肖像画の上腕骨などから計算して161cm、47kgとかなり痩せ気味です。弟子たちも『背は高からず低からず』と書いています」
江戸時代後期
大空武左衛門 236cm、131kg「下垂体性巨人症だった疑いが強い」
時代が幕末を迎えると、現代でも考えられない超巨体が現れる。見世物力士として活躍した大空武左衛門だ。なんと身長236cm、体重131kgと、日本人離れしている。
「画家の渡辺崋山が身体測定に基づいて等身大像を描いた。脳下垂体前葉から分泌される成長ホルモンが過剰となって起きる下垂体性巨人症だった疑いが強い。典型的な症例として医学書にも載ったほどです」
西郷隆盛 180cm、110kg「上野の西郷像は別人説も」
東京・上野公園に銅像が飾られている維新志士の西郷隆盛はイメージ通り、推定180cm、110kgという巨体である。
「ただし、あれは別人だという説もある。西郷の妻が銅像除幕式で『うちの人はあげな顔ではなか!』と叫んだという逸話もある。ただ、奄美大島に流された際、風土病であるフィラリア症にかかり陰嚢水腫という睾丸が膨れ上がる病気になったことは史実です」
坂本龍馬 169cm、66kg「胃潰瘍だった可能性も」
幕末の英雄・坂本龍馬は写真が残されており、そこから169cm、66kgと推定。
「写真の龍馬は右手を懐に入れています。ピストルを所持していたという説もありますが、私は胃潰瘍だったのではないかとみています。ナポレオンも胃潰瘍で、いつも腹を擦っていた。龍馬もナポレオン同様、胃を痛めていた可能性が高い」