ブリタニーの病が誤診だったなんて言いたいわけではないし、実際彼女の病状は誰が診ても絶望的なものだっただろう。しかし、出会う医師によって、死が許されるのか、あるいは、禁ずる方向に導かれるのかの分岐点がある事実を、私は改めて知った。
ジャネットの家を去る前、私は医師と患者2人の写真を撮った。その時、彼女が小声で、こう言った。
「スティーブンス先生、本当にありがとう。あなたがいらっしゃらなければ、私は今頃……。グレイト・トゥービー・アライブ(生きていて良かった)!」
やや作られた台詞臭い響きがあった。しかし、この言葉こそ、死期を早めることを一度は考えたが、今もなお生き続けている人間だけが口にできる無上の一言に違いないと、私は思った。
彼女と別れた後、極度の疲労感に襲われた。車中でスティーブンス医師から、さらなる難題を突きつけられた。
「安楽死という医療行為が、患者を痛みから逃れさせるためにあるのだとすれば、なぜ、アフリカやアジアの途上国では行われていないのでしょうか」
言われてみれば確かにそうだ。なぜなんだ? すると銀縁の眼鏡の奥にある優しいまなざしが、私の瞳を捉えた。
「家族です。そう、家族の形が、われわれ白人社会とは違うんだと思う」
ブリタニーの夫、ダン・ディアスが、人間が安らかに死ねるための法を全米で推進するのに対し、スティーブンス医師とジャネットは、人間がいかに簡単に死んではならないのかを訴える。わずか4日の間に、両者は、私に対極の論理を提示してきた。
なぜ、安楽死を容認する人と、それを否認する人とに分かれるのか。安楽死が世に存在する本来の意味は一体何なのだろうか。医師と別れた後も、自問自答の時間は続いた。
ついに、このときが来てしまった。私は、今、これまで以上に人の死をロジカルに捉えることができない、究極の崖っぷちに立たされることになった。
※SAPIO2016年11月号