【著者に訊け】文月悠光氏/『洗礼ダイアリー』/ポプラ社/1400円+税
詩人も、人の子。バイトもすれば、メシだって食う。
「それこそ『詩人って何を食べて生きてるの?』ってよく訊かれるんですけど、普通に『今朝は納豆』とか『甘い物も好き』と言うとなぜかガッカリされちゃうんですよね(笑い)」
まして15歳でデビューし、中原中也賞を史上最年少の18歳で受賞した文月悠光氏(25)の場合、事あるごとに〈詩人ならではの感性〉を求められ、〈生きてる詩人〉として珍しがられたという。
そうした世間の反応をも、どこか適切な体温をもって見つめる彼女の初エッセイ『洗礼ダイアリー』には、幼少期から現在に至るまで、どんな違和感や理不尽にも言葉で向き合ってきた氏の、数々の洗礼遍歴が綴られる。
仮に詩人=繊細とすれば、彼女は〈大人になる〉こと一つにも考えや言葉を尽くし、ただ漫然と歳だけ食った我々大人はドキリとするほど。繊細さとはつまり、自分を取り巻く世界と真摯に対峙する、律儀で丁寧な生き方のことだった!
第一詩集『適切な世界の適切ならざる私』にこんな一文がある。〈十四歳の冬。自分を取り巻く世界に「流されるまま」生きることは、たまらなく卑怯に思えた。私はいつだって、この世界とフェアでありたかった〉〈私にとって、“詩”とは、紙に整列する活字ではなく、日常の中で心や身体に起きる、生きた“現象”である〉
「こういうことを書くから、『詩人は怖い』って思われちゃうんですよね(笑い)。今回エッセイ集を出して思ったのは、エッセイは詩と違って作者に関する情報が多いためか、読者が共感しやすいようなんです。
同世代は自分自身に重ねて読んでくれるし、30代以上の方だと『自分も昔はこういう感覚があったのに、いつから蓋をしてしまったのか』とか、読者の感想も内容に対してストレートでした。
逆にいうと、詩の言葉は良くも悪くも刺さり過ぎる。何の情報もないムキだしの言葉に対峙するのは、耐性のない方には相当怖いと思うんです。それが一般に詩が敬遠される原因かもしれなくて、『エッセイが面白いから、詩も読んでみるか』くらいに、気軽に構えて下さると有難いですね」