日本各地には、「金沢vs新潟」「高松vs松山」など、互いに「あの街だけには負けたくない……」と、ライバル心をむき出しにする戦いが存在するが、群馬県ではそれが県内で行われている。群馬県の県庁所在地である前橋と、人口や面積で上回る高崎には深い因縁がある。両市は長年にわたり、県庁所在地の奪い合いをしてきたのだ。
1871年10月、旧前橋藩(前橋県)と旧高崎藩(高崎県)などが一緒になって“第1次群馬県”が誕生し、最初の県庁は旧高崎城下に開庁した。その7か月後には旧前橋城下に移転。さらに1876年、周囲の県と合併して、再び高崎に仮県庁が置かれたのが、“第2次群馬県”である。
それで一件落着かと思いきや、その後5年間にわたり両市の間で誘致合戦が起こり、1881 年、ついに政府の太政官布告により県庁所在地が高崎から前橋に改定された。その背景について、共愛学園前橋国際大学名誉教授の石原征明氏が語る。
「生糸貿易で財を成した前橋の商人が、巨費を投じて県庁誘致運動を起こした。当時の群馬県令は高崎市民の反発を受けて“地租改正”(※注)が終わればすぐに高崎市に県庁を移す“と約束していましたが、太政官布告によって、約束が守られることはなかった。反発した3000人の高崎市民が前橋に向かいデモするという事態も起きました」
【※注/県内の地租を集約する必要に迫られたため、県庁が数か所に分散している高崎よりも、1か所に集約している前橋の方が効率的とされた】
それから100年以上が過ぎた今も、高崎市民の“県庁奪還”への思いは消えておらず、「高崎駅前には高島屋もヤマダ電機もある。新幹線も停まる。市内総生産も人口もいまや高崎が上。前橋はいつまで群馬の顔気取りなんだ」と憤る。前橋と高崎の市庁舎間の距離はたった 12キロ。しかし、両市の心の距離はその何倍もあるのだ。
※週刊ポスト2016年11月11日号