1970年代に入ってからの約10年、小林薫(65)は、唐十郎率いる劇団「状況劇場」に身を置いていた。高校の夏休みに芝居を観て感激し、自ら飛び込んだのだ。辞めていく仲間があとをたたない中、小林は20歳から29歳まで在籍。タブーを次々と破っていくアングラ演劇の真髄が小林の身体に染みついた。そして小林がマスターを務める(映画・ドラマ)『深夜食堂』の出演者を「僕をはじめ地味でアングラな役者ばかり」と諧謔的に言う。
「アングラって言葉はすでに死語だけど、僕にとってみたら、その死語を今もあえて使っているという感覚です。アングラなんて実際に知っている人はいないでしょ。でも、僕の役者としての出発点を考えると、まあ、選ばれて入ったわけじゃないということで、アングラと例えて言うわけです。
1970年代のゴールデン街を含めて、あの新宿という街の中で演劇をやっていた、どうしようもないアングラ感というのは、やっぱり抜けないんです。そんなにポッとスマートになるというものではないと思うんです」
唐の元を離れた小林は、久世光彦演出の向田邦子ドラマや『ふぞろいの林檎たち』、『ナニワ金融道』などに出演。瞬く間に多様な役を演じられる役者として重用される。しかし、そうした作品でもやはり、アングラの狂気の匂いはちらちらと顔をのぞかせた。
小林の所作には、どこか諦観の境地がある。それは言葉少ないマスターからも感じるのだが、謎めいていて、俗っぽい欲望のようなものが見えてこないのである。小林はマスター像をこう解説する。
「マスターにドラマがあるわけじゃなくて、ガラッと戸を開けて店に入ってくるお客さんに秘めた事情がある。その聞き役、映像を観る人のガイド役みたいな感じで僕はいるだけなんです。よく冗談で言うのは、マスターは動くセット、喋る書き割り(笑い)。マスターのセリフは『あいよ』とか短くて少ないでしょ。マスターがどう思っているかはもうひとつつかめなくていい。
木枯し紋次郎じゃないけど、かかわりのねぇことでござんす的にちょっと一歩引いて、お客さんの物語を受け止める役なんです」
58歳だったマスターは、今年、65歳を迎えた。いずれ70歳のマスターも誕生するのかもしれない。