日本でサッカーがまだマイナースポーツだった1964年、東京五輪男子サッカーのグループリーグ第1戦で、日本がアルゼンチンに勝利した“事件”は、今もサッカー界で語り継がれる伝説だ。サッカー後進国の日本は、なぜ世紀の番狂わせを起こせたのか? 日本サッカー協会元副会長の釜本邦茂氏が、試合を振り返る。
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マスコミは「ベルリンの奇跡(※)以来の快挙」と報じ、ドイツから招聘したクレマーコーチも「君たちは日本のサッカーの歴史を作った」と大喜びした。確かに当時、優勝候補だったアルゼンチンに3対2で逆転勝ちするなんて誰も考えていなかったわけですからね。
【※1936年のベルリンオリンピックサッカー競技1回戦にて、日本代表が優勝候補だったスウェーデン代表に3-2で逆転勝利した試合】
大会前、ヨーロッパサッカーはクレマーコーチの影響で学習していましたが、アルゼンチンのような個人技に優れた南米サッカーには勝てるはずがないと思っていた。案の定、試合が始まると、ボールの支配力が違った。前半24分、アルゼンチンに先制ゴールを決められ、サッカーをさせてもらえている感じが全くしなかった。とにかくボールをキープできず、パスもつながらない。個人の技術差は歴然でした。
ところが、後半9分に杉山隆一さんがドリブルシュートで同点ゴールを決める。その8分後にアルゼンチンに2点目を決められますが、私のクロスから川淵三郎さんがヘディングシュートを決め、再び追いつくことができた。
その時、私の感覚は“追いつくので精一杯”というものでした。残り時間が10分以上あったので、また突き放されるんじゃないかという不安がありましたね。
ところが、この同点ゴールでアルゼンチンの選手たちが明らかに気落ちしたのです。ピッチ上の私にもよくわかった。「1点で勝てる」と思っていた相手に2点も入れられてショックだったのでしょう。そこをたたみかけて1分後に小城得達さんのゴールで勝ち越し。そこから、試合終了までの7~8分はとても長く感じられました。
この東京五輪ではラッキーもあり、日本と1次リーグで同組だったイタリアのメンバーにプロ選手がいて、規定違反で棄権。結果、日本は、グループリーグを1勝1敗の2位でベスト8に進出します。
東京五輪で確かな実績を残した自信が、日本サッカーのメキシコ五輪銅メダル、私自身の同大会得点王につながったと思っています。
※週刊ポスト2016年11月18日号