過労自殺した電通の女性社員の問題で、厳しい電通マンの心構えを説いた「電通 鬼十則」が話題になった。説いたのは電通の中興の祖である第四代社長の吉田秀雄。吉田とはどんな人物だったのか、今回の事件に本当に「鬼十則」が背景にあるのだろうか。電通の社史「電通100年史」からひもとく。(取材・文=フリーライター・神田憲行)
* * *
電通の社史「電通100年史」は2001年7月に発行された。「鬼十則」を提唱した吉田秀雄の業績は「第三編 飛躍の軌跡」として分厚くまとめてある。
それによると吉田が第四代電通社長に就任したのは1947(昭和22)年6月のこと。43歳の若さだった。吉田は1903(明治36)年福岡県小倉市に生まれ、東京帝国大学経済学部を経て、1928(昭和3)年に電通に入社。本格的な公募学卒社員第1期生だったという。広告代理業部門である営業部で早くも頭角を現し、戦時中も辣腕をふるっていたらしい。
《(前略)電通に吉田ありとして、その存在を広告界や新聞界に知られていた。終戦直後の混迷期にも、通信部門の出身で広告業に通暁していなかった上田社長を補佐し、事実上電通をリードしてきたのは吉田であった》(「電通100年史」)
吉田が社長就任で語ったのは、当時社会的評価が低く見られていた「広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたい」ということだった。吉田を囲む早朝ミーティングが始まり、社長以下全幹部が毎日、業務開始の9時より1時間早い朝8時に出社するようになった。
《そこから、「こんなに朝早い時間に銀座を歩いているのはモク拾い(煙草の吸い殻拾いのこと)と電通の社員だけだ」との評判が生まれたという》(「同」)
また公職追放令該当者や外地からの引き揚げ者なども積極的に電通に迎え入れた。公職追放令で職を失った新聞の元幹部社員たちが生活の糧に設立した広告代理店を電通社内に置かせた。仕事は毎月1回電通と会合して、昼食のもてなしを受けることだったという。
《要するに吉田は戦後の混迷期に不遇をかこっていた先輩新聞人たちにいわば雨宿りの場所を提供した》(「同」)