日本有数の漁港たる北海道・根室は「国境の街」としての顔を持つ。戦後の冷戦体制下にあっても、ソ連との接触は途絶えなかった。ジャーナリスト・竹中明洋氏が、根室アンダーグラウンド史を掘り起こす。
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「そんな昔のことを聞いてどうすんべ」
10月中旬、早くも冷え込む北海道東部の根室で、漁港を歩き回ってようやく見つけた70歳の老漁師にいきなりそう怒鳴られた。
老漁師はかつてのレポ船の船員だ。レポ船とは、ソ連の国境警備隊に金品や情報を提供する代わりに北方四島周辺の海での漁を許可された船のことである。「赤い御朱印船」とも呼ばれた。老漁師に声をかけ続けていると、ぽつりぽつり当時のことを話し始めてくれた。
「FAXやラジオ、釣り具、女ものの下着を見繕って渡すと喜ぶんだ。その代わりに国後の沖でカニやウニをたんまりと取らせてもらう。向こうには必ず日本語ができるのがいて、海保の職員に知り合いはいないかと聞かれたこともあったな」
レポ船が登場するようになったのは、戦後間もなく。ソ連に追われて島から根室に引き揚げた漁師たちが中心となり、かつて自由に漁をしていた四島周辺の海に入り、国境警備隊と拿捕や臨検で接触を繰り返すうちに始まったと言われる。
次第に金品を渡す他、警察や海保、自衛隊などの情報を求めに応じて提供する者まで現れるようになる。れっきとしたスパイ行為だが、日本では、取り締まる法律がない。老漁師も根室市内の自衛隊基地を写真に撮って渡したことがある。
日本の公安当局も黙って見過ごしていたわけではない。船員を二重スパイに仕立て上げ、ソ連側がどんな情報を必要としているのか探った。1980年6月21日付『北海道新聞』には、レポ船主と警察官とのやりとりを密かに録音した記事が掲載されている。
レポ船主:いよいよあす、ソ連へいくわけさね…。
警官:巡視船と出合うことはないだろうね? 警察について聞かれることないかい?
レポ船主:(警察との関係は)一切持っていないということで話してあるんでね。
その後、船主はソ連側から、日本の公安調査局の係官をレポ船に同乗させてほしい、との依頼があったことを明かす。ソ連側の意図はよく分からないが公調側は断った。その言い訳に苦慮する船主に対して、「努力している素振りを見せとけば(ソ連から関係を)切られない」「なんぼでもするから」と警官がなだめる。
記事にはレポ船主とソ連の国境警備隊幹部との生々しいやりとりもある。ソ連側は日本語が達者だ。