左投手、左打者といえば、野球の世界では「切り札」として期待される存在だ。ドラフト1位で阪神タイガースに入団、ロッテ・オリオンズをへて再び加わった阪神では抑えやワンポイントで活躍した左投手、遠山奬志氏が、左利きだからこそプロ野球を続けられた現役時代を振り返った。
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物心がついた頃、両親は左利きのままだと不便だと心配して、僕に習字を習わせました。だから、今でも字を書く時は右です。
ただ、野球は左利きのままでいいと、父親が左用グローブを買ってくれた。それがなかったら僕はプロ野球選手にはなれなかったかもしれません。
1997年にロッテを自由契約になった時、古巣の阪神が拾ってくれたのは左利きのおかげ。復帰2年目に就任した野村克也・監督が左のワンポイントとしての登板機会を与えてくれた。
右アンダースローの葛西稔とセットで起用されたこともありました。僕が左打者との対戦を終えると、僕が一塁を守って葛西が右打者に投げ次の左打者を迎えると僕がマウンドに戻る。監督から「これは邪道。失敗したら二度とやらない」と言われましたが、結局、一度も失敗はなかったと記憶しています。
“相手の左右に関係なく、任せてほしい”という思いもありましたが、対戦相手は左の強打者ばかりで絶対に打たれてはいけない状況。そんな場面を任されたことは投手冥利に尽きますね。
中でも印象深いのは、やはり巨人時代の松井秀喜。13打席連続で抑えて“松井キラー”と呼ばれましたが、彼は打ち取られたコースを必ず克服するので実に厄介でした。崖っぷち続きの野球人生でしたが、左利きだからこそ17年間もプロの世界にいられた。父親には本当に感謝しています。
●とおやま・しょうじ/1967年生まれ。1986年阪神入団。ロッテへのトレード、外野手転向を経て、1997年オフに古巣・阪神に復帰後、左のワンポイントリリーフで活躍。2002年に引退。
※週刊ポスト2016年12月9日号