【書評】『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』梯久美子 著/新潮社/3000円+税
【評者】川本三郎(評論家)
「そのとき私は、けものになりました」。二〇〇六年、著者が島尾敏雄の妻ミホにインタビューした時、ミホはそう言ったという。冒頭のこの言葉が重い。「そのとき」とは、結婚して八年目、ミホが、新進作家として世に出た夫の日記を読んだとき。そこには他の女性との関係が書かれていた。それを読んでミホは精神の均衡を失ない、狂の人となった。
その後の島尾夫婦の修羅は敏雄の『死の棘』によってよく知られている。「狂うひと」と看病につくす夫。二人は「戦後文学史に残る伝説的なカップルとなった」。
著者は、二人を主として妻ミホの立場から描き出してゆく。厖大な資料を読み込み、関係者を探し出し話を聞き、二人が戦時中に出会った奄美群島の加計呂麻島に何度も足を運ぶ。大変な労作。
随所に卓見、思いも寄らない推論がある。いちばん驚くのは、敏雄が日記をわざとミホに見せたのではないかと推論するくだり。机の上に日記は開いておいてあったという。妻に読ませてその反応を見たいという作家のエゴ、業か。子息で写真家の島尾伸三によれば敏雄には裏日記と呼ぶべき、もうひとつの日記があり、それを隠していたというから決して無暴な解釈ではない。
『死の棘』の愛人のモデルはこれまで謎とされていた。著者は、関係者の話から、愛人が誰かをつきとめる(本書では仮名にされている)。どうも自殺したらしい。このくだりも圧巻。その先をもっと読みたいと思う。
加計呂麻島で海軍特攻隊の中尉と島長の娘が出会い、恋をした。従来の、ミホを巫女、聖なる少女と解する評論に異を唱え、ミホは婚約者もいた二十五歳の知的な女性だったと考えるのも新鮮。
島尾中尉は特攻のあと、島民の集団自決も見据えていた。戦争に生き残ったあと、そのことが重い罪責感となったとするのも従来あまり語られていない視点。戦争の極限状態、妻の狂気、作家の業。重い主題を描きながら文章はあくまで冷静平明。みごと。
※週刊ポスト2016年12月9日号