日ハムでダルビッシュ有(30)の「11」を受け継いだ大谷翔平が大活躍を見せ、ヤクルトで昨オフに青木宣親(34)から「1」を渡された山田哲人(24)が2年連続トリプルスリーを達成するなど、期待に応える選手がいる一方、“背番号の重圧”に勝てない例もある。
2013年、広島で当時の野村謙二郎・監督が、自身が現役時代につけていた「7」を授けたのが堂林翔太(25・2009年ドラフト2位)だったが、その重圧からか年々出場機会は減っていく。今年は47試合出場に留まり、チームのリーグ優勝にもほとんど貢献できなかった。
長く生え抜きとして活躍した選手の番号は、後世の選手に様々な重圧を与える。
ヤクルトの背番号「8」として4番を張った広澤克実氏は、FAで巨人に移籍。「8」は原辰徳氏の番号だったので、「80」をつけた。その後、阪神に移籍した際につけたのが“ミスター・タイガース”と呼ばれた掛布雅之氏の「31」だった。広澤氏が振り返る。
「阪神では最初、『48』をつけることに決まっていたんです。ところが、入団発表の当日に“『31』は掛布のイメージが強すぎて誰もつけたがらない。キミがそのイメージを中和してほしい”と球団側に頼まれて、急遽変わったんですよ。そのせいで、活躍しても甲子園のファンから“背番号を返せ”なんてブーイングを受けました。今考えれば馬鹿馬鹿しい話ですが、当時は大変でしたよ(苦笑)」
先人に匹敵する逸材に渡す、という曖昧な基準は落としどころを難しくする。
「中日では2009年に球団記録の2480安打を放った立浪和義が引退し、“背番号『3』を永久欠番に”というファンの署名活動まであったが、白井文吾・オーナーと落合博満監督(当時)は、“森野将彦(38)に『3』を渡す”と決めて発表し、猛反発を食った。結局、森野は辞退。『3』は立浪と同じPL学園の後輩として2011年に入団した吉川大機が継いだが、入団わずか2年で戦力外通告を受けた」(中日新聞関係者)
現在は2011年のドラ1・高橋周平(22)が「3」をつけている。
実績を残せば“俺の番号”と胸を張れ、力が無ければ後から出てきた選手に奪われる。オフシーズンはそんな「背番号争奪戦ドラマ」のヤマ場でもあるのだ。
※週刊ポスト2016年12月16日号