今年も多くの著名人が天国に旅立った。各界で活躍した彼らの姿は、今も私たちの心に深く刻まれている。肺炎のため死去したラジオパーソナリティーの永六輔さんもそのひとり(享年83才)。
夜空に願いをかける歌詞を好んだ永六輔さん。その命日は、七夕の日だった。
東京・浅草の寺の息子として生まれ、テレビ草創期に放送作家としてデビューした。NHKの人気番組『夢であいましょう』の台本を担当し、ラジオパーソナリティーやエッセイストなどマルチな才能で多方面で活躍した。
作詞家としても、『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』など数多の名曲を世に送り、前向きな歌詞が多くの日本人に希望を与えた。
1963年に発売された永さんの代表作、『こんにちは赤ちゃん』を歌った梓みちよ(73才)は当時、独身で20才になったばかりだった。どう歌えばいいのかと戸惑う彼女に、永さんは優しくこう告げた。
「いいかい、女性はみんな母性本能がある。胸に玉のようなかわいい赤ちゃんを抱いてると思って歌えばいいんだ」
梓が当時を振り返る。
「50年以上前のアドバイスですが、今でも昨日のことのように思い出されます。永さんなしでは、梓みちよという歌手は誕生しませんでした」
他人を思いやらず、過去から何も学ばない世の風潮を嘆き、怒りの声を発する「昭和の頑固親父」だったが、内面は実に穏やかだったと友人の小林亜星さん(84才)が言う。
「お寺に生まれた永さんは質素を好みぜいたくが大嫌いで、いわゆる“飲む打つ買う”を一切しなかった。人を喜ばせることが大好きでラジオではおしゃべりだったけど、普段は無口で控えめ。自分の作った歌でさえ、『恥ずかしくて歌えない』と照れる人でした」
そんな永さんが生涯、世の中に訴え続けたのが「平和の尊さ」だ。
2010年にパーキンソン病を患った後も反戦活動を続け、昨年1月、都内で開かれたイベントでは車椅子で登壇して東京大空襲を振り返り、「東京で死んだ子供がいっぱいいた」と嗚咽しながら語った。小林さんが続ける。
「永さんは、日本が急速に右傾化して、戦争が近づいてくることへの強烈な危機感を持っていた。焼け野原からここまで来たのに、また戦争をしたがる日本人が出てきたことに、『困ったもんだ』と悲しそうにつぶやいていました」
※女性セブン2016年12月22日号