大橋巨泉さん、永六輔さんなど、テレビ・ラジオ界の大物が天国に旅立った2016年。そして、舞台界の巨匠・蜷川幸雄さんは5月12日、肺炎による多臓器不全のため亡くなった。80才だった。
舞台に懸ける情熱は最後まで衰えることはなかった。蜷川さんは、昨年12月に体調を崩してからも、車椅子に酸素チューブをつけて稽古場に姿を見せていた。「応援団」を自認する俳優の妹尾和夫(65才)が言う。
「最後に楽屋でお会いした時は目の焦点が合ってなかったんです。ひざまずいて手を握りながらしゃべったんですけど、ぼくを誰だかわからない感じで。でも、プロデューサーによると、“稽古に入ると焦点がパッと合う”と。まさに命を削りながらおやりになっていた」
妹尾が蜷川さんの舞台を初めて見たのは大学時代。蜷川さんが売れない役者からアングラ劇団の演出家に転身したばかりの頃だった。
「劇団現代人劇場の『想い出の日本一萬年』という、蜷川さん2作目の演出作品でした。電光が走るくらいの衝撃を受けましたね。その日は興奮して夜が明けるまで演劇部の仲間と語り合いました。この時、ぼくは“役者になろう”と決めたんです」(妹尾)
初対面はそれから30年後。蜷川さんが監督した映画『青の炎』のインタビューだったが、本人を前に興奮しすぎ、妹尾はひとりでしゃべりっぱなしだったとか。以来、自腹で地元・大阪から関東の舞台を見に行って楽屋で挨拶。帰阪して自らがパーソナリティーを務めるラジオ番組で勝手に宣伝するのが常になった。
「灰皿を投げるとか、怖いイメージで言われていましたが、“灰皿を投げたのは1回しかないのに、困っちゃうよ”と笑ってました。たしかに稽古に入ると鬼だけど、あんなに優しくて、愛情にあふれるかたはいません。あるお芝居のリハーサルを見学した時ですが、萩原流行さんだけが噛みまくっているのに、なぜか蜷川さんは全然、指摘しない。それどころか優しい表情で萩原さんを見つめていました。後でわかったのは、萩原さんはその頃、躁鬱病と闘っていて、それを承知で出てもらっているからだ、と」
大勢の役者が別れを惜しんだ「世界のNINAGAWA」の素顔だった。
※女性セブン2016年12月22日号