年末年始はじっくりと本を読む良いチャンスだが、本読みの達人が選ぶ書は何か。まんが原作者の大塚英志氏は、主権者教育を読み解く書として『憲法の無意識』(柄谷行人・著/岩波新書/760円+税)を推す。大塚氏が同書を解説する。
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柄谷行人が湾岸戦争以来、久しぶりに「憲法九条」について話し始めた時、ぼくの知る、柄谷にかつて傾倒していた若い批評家は「もうついていけない」と言った。
なるほど、九条の理念が戦後の日本人の「無意識」だという主張だけを読めば困惑はわからないわけでもないが、柄谷が「パリ不戦条約」からカントの「永遠平和」、果てはフロイトの「超自我」まで持ち出してまで言わんとするのは、この九条の理念が人間の「内部」からの「自発的」なものだと何としても主張したいからだ。そうあるべきだ、と彼は祈っている。
そのことにぼくは同意し、ならば柄谷のこの本と柳田國男の『青年と学問』を併記することを読者に強く勧める。この書は大正末から昭和初頭、パリ不戦条約に至る文脈の中で書かれ、一読すればまるで柳田が戦後憲法の前文や九条を語っているかの如き錯覚に陥るはずだ。
柳田はこの理念を第一次大戦後の「世界一般」の中に芽生えた「個人道徳」であった、と言っている。いわば、世界の人々の「無意識」としてある、と柄谷のように感じ、あるいはそうあってほしいと願っている。
だからこの書を踏まえると、柳田が戦後、最後の枢密院顧問官として、戦後憲法の審議に関わったことや、死の間際の講演で息も絶え絶えに「憲法の芽を生やさなくてはならない」と呟いたことの意味もやっと見えてくる。
しかし一つだけ柳田と違うのは、柄谷がこの「無意識」の発露としての選挙を信じないことだ。柄谷は選挙では「憲法の無意識」は、可視化はしないと言う。それは選挙民の愚かな選択を危惧してのことだろう。
しかし柳田はそのリスクヘッジとしてこそ、彼の学問をつくろうとした。柳田は「普通選挙」によって不戦が可能になるようにするべきだと考え、「公民教育」、つまり「主権者教育」として彼の学問をつくった。『青年と学問』はその宣言の書である。このように戦後民主主義は「戦前」の思想なのであり、「押し付け」憲法論はこの一点で正しくない。
※週刊ポスト2017年1月1・6日号