年末年始はじっくりと本を読む良いチャンスだが、本読みの達人が選ぶ書は何か。国際日本文化研究センター教授の井上章一氏は、災害からの復興を読み解く書として『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』(ファブリツィオ・グラッセッリ・著/水沢透・訳/星雲社/1000円+税)を推す。井上氏が同書を解説する。
* * *
二〇一六年は、イタリアで大きな地震があった。アマトリーチャをはじめ、いくつかの街で、建物がくずされている。もちろん、どの街でも復興作業はすすめられるだろう。一七年には新しい都市景観の一端が、うかがえようか。
しかし、イタリアの古い街で、市中の建物が鉄筋コンクリートのビルにかわることはない。たてなおされる建物は、以前と同じ外観をたもちつづけるだろう。石やレンガをつみあげる組積造で、姿をあらわすにちがいない。
日本でなら、このさい新しい建物にしてしまおうという声も高まろう。耐震強度が外からでもよくわかる、安心してくらせるかまえでたてられるにちがいない。これ見よがしの筋交いを露呈させた建物も、もうけられようか。
だが、イタリアではそうならない。耐震面では非力にうつる構成の、古くからつづいてきた街並みが再現されるはずである。目に見えないところで耐震補強がほどこされることは、じゅうぶんありうる。しかし、そんな安全性より、街並みの持続性こそが、外観では優先されるにちがいない。
一四年に、スイスの高山鉄道でおこった事故を、おぼえておられようか。山上からおちてきた土砂が列車にあたり、惨事をひきおこしたのである。あれも、日本なら安全第一で対処するだろう。落石のおこりそうな山の表面を、コンクリートでおおってしまうのではないか。だが、スイスはそうしない。あいかわらず、岩がぽろぽろこぼれおちているところを、鉄道ははしっている。
安全を最優先にかかげる日本的な処理がだめだと、そう言っているわけではない。だが、旧観の保全を優先しがちなイタリアの被災地に目をむけ、かみしめてほしいとは思う。安全性を、日本ほどは気にしない文化圏もあるのだ、と。
ファブリツィオ・グラッセッリは、滞日二十年におよぶイタリア人の建築家。昨年、『イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議』を、刊行した。私には、彼我の違いを思い知らされた一冊である。
※週刊ポスト2017年1月1・6日号