〈卒寿? ナニがめでてえ!〉と言い放ち、体のあちこちの故障を嘆き、スマホの普及に怒り、子供の立てる騒音を嫌う人たちを叱る──作家・佐藤愛子氏の痛快なエッセイ『九十歳。何がめでたい』が多くの読者の共感を呼び、ベストセラーとなっている。11月に93歳となった佐藤氏は、この現象をどう受け止めたか。
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こんなものが読まれるようじゃ日本は滅びるんじゃないかと思いますよ(笑い)。
だけど、「みんなが言いたいと思っていたことを言ってくれた」という声を聞いたりしますと、「そうか、そう思ってたのか」と、それは新しい発見でしたね。
私自身は、へんてこなことを言って、顰蹙する人は多いだろうと思いながら書いていたわけです。大体、人様にものを教えることはできない人間なので。その自覚があるから、変なやつが変なことを言ってるわ、って読み捨ててもらうのが理想で、私が書いたことに、いちいち難しい感想を持たれても困ります(笑い)。
私がこう思う、と書いても、そう思わない人はいくらでもいます。それで結構、と昔から思ってますので、「そんなふうに強く生きるにはどうすればいいのか」なんて聞かれると困っちゃうんですよ。
ただ、この本の中で、自分が一番強く感じ、読者も心を留めてくれるかなと思ったけど、あれが面白かった、ここがよかった、といろいろな話を聞くなかで、誰ひとり何も言わなかったところがあるんです。
小学生の男の子がサッカーボールを蹴って、通りがかったオートバイのおじいさんに当たりそうになった。おじいさんがよけようとして転倒、骨折して入院し、一年以上たって肺炎で亡くなったら、遺族が裁判を起こして賠償金を請求したことがありましたね。
司法も味方して一審二審は両親に賠償を命じたので、いよいよ裁判官までおかしくなった、と書いた章です(※その後、最高裁は訴えを棄却)。
不幸なことが起きたときに、あきらめたり、忘れたりして人間は成長します。