戦前の大富豪たちは、今では考えられないほどのスケールでカネを稼ぎ、そして使いまくっていた。彼らは、世界と伍していくために邁進していく戦前の日本の映し鏡でもあった。歴史に造詣の深いライフネット生命会長・出口治明氏が監修、忘れられた大物実業家たちの軌跡を辿る。
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死の商人──鉄砲商として身を立て、財を成した大倉喜八郎の異名である。1837年、現在の新潟県新発田市生まれ。若くして江戸に出た喜八郎は「大倉屋」という乾物屋を営んでいた。
時は幕末。ビジネスチャンスとみた彼は乾物店から鉄砲商へと転身をはかる。戊辰戦争で名前を売り、台湾出兵、日清戦争、日露戦争……と軍の御用商人としての地位を確立。一代で大倉財閥を築き上げる。
「死の商人というと負の部分だけが強調されて、大倉喜八郎という人物が見えなくなってしまう。“政商”という言葉の方が適切に彼を表わしているのではないでしょうか」
そう語るのは、滋賀県立大学の准教授として異文化交流史の教鞭を執る中国・内モンゴル出身のボルジギン・ブレンサインさんだ。
政商・喜八郎を代表する事業が、元勲・井上馨の要請で手がけた鹿鳴館の建設である。その後も井上の頼みで、帝国ホテルと帝国劇場も建てている。伊藤博文や後藤新平らは、要人との密会に東京・向島にあった喜八郎の別荘を使っていた。大物政治家との親密ぶりは、まさに“政商”と呼ぶにふさわしい。
喜八郎の財を頼ったのは日本の政治家だけではない。ブレンサインさんは言う。
「中国の清朝末期、モンゴルの王公たちに大金を貸していたんです。そうやって大陸での大倉財閥の影響力を強めていきました」
なかでも知られるのが「粛親王借款」である。日本政府から粛親王(*)への政治資金150万円の借款を肩代わりしたのが、大倉財閥だった。現在の価値で数十億円にも相当する。
【*清の皇族の称号。第10代粛親王の愛新覚羅善耆(あいしんかぐら・ぜんき)は、大倉喜八郎の資金援助で満蒙独立運動を率いた】