現役最年長パイロットとしてギネス認定された高橋淳氏(94)。戦時中には壮絶な出撃経験も持つが、「今でも戦争を思い出すか?」と聞かれても悲壮な表情は見せない。「一人でしんみり思い出したりはしないよ。女性に聞かれれば喜んで話すけどね」と笑って返すユーモラスな人柄の持ち主だ。高橋氏が、空を自由に飛べる喜びについて語った。
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今も週1回は飛行機に乗っています。パイロットに年齢制限はなく、年に1度の身体検査で指定医のOKが出れば飛べます。94歳になっても車の免許更新の身体検査では50歳くらいの数値が出て、「おかしい。機械が壊れているかも」と不思議がられますね。
僕は自分を90代と思ってない。20年前と同じような気持ちで生きています。車でも高齢者の運転が危険視されるけど、人によって身体能力は相当違うから、何でも年齢で括るのは反対だね。ま、都合が悪くなると94歳に戻るけど(苦笑)。
小学校の頃から純粋に飛行機が好きで、海軍兵学校ではなく予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊しました。数年で民間のパイロットになろうとしたけど、すぐに太平洋戦争が始まった。
昭和19年(1944年)から、一式陸上攻撃機の操縦士として、南方戦線や沖縄方面に出撃しました。主な任務は敵艦への魚雷攻撃で、海上スレスレに飛行して敵艦との距離1kmまで近づき、機関銃の集中砲火を避けながら魚雷を落とします。
相手の至近距離まで接近するのに、攻撃のマニュアルもなかった。「敵艦の大砲は甲板より下を向かない」という先輩の体験談を聞き、敵の弾道を予想して弾幕をくぐり抜ける飛行法を独自に考えました。一式陸攻は防弾設備がなく、スピードが遅い大型機であることも災いし、僕の部隊は10機出撃して帰還は半数でした。
沖縄戦はもうめちゃくちゃ。「何回でも出撃しろ」といわれ、鹿児島の出水の部隊は出撃するごとに減っていき、生き残ったのは僕の機体だけです。出撃前に身の回りを片づけた者、「今日はダメかも」とつぶやいた者、爪を切った者──みんな帰って来ませんでした。
僕は“無駄死にはしない。何があろうが生きて帰る”と心に念じて飛び立ち、搭乗員にも絶対に遺書を書かせなかった。最後まで諦めない精神力が命を守ってくれたのだと思います。