かつてプロ野球界では、レコードを出すことがスター選手の証しだった。現在は野球評論家として活躍する江本孟紀氏もそのひとり。5枚のシングルと1枚のアルバムをリリースした江本氏が、“音楽活動”について振り返る。
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僕の現役時代は、レコードを出すのは1つのステータスでした。各球団の主力選手になると、だいたい出していましたからね。特に1970年代のパ・リーグは不人気で、球場はガラガラ、テレビ中継も全くない時代でしたから、宣伝の意味合いも大きかった。球団も乗り気でしたし、オフにプロ野球選手の歌番組に出るときは、「名前売るために勝ってこい!」と檄を飛ばされました。
1973年に『あぶさん』のテーマ曲で初めてレコードを出した時、野村克也監督だけは「芸能人みたいなことするな」と批判的でしたよ(笑い)。ヤクルトの監督になってからは意識が変わったようで、CDを出していますけどね。
僕は法政大時代に、合宿所で下級生に観客になってもらって、ギターの弾き語りをしていました。それくらい歌は好きで、井上陽水さんやビートルズをよく聴いていました。でも、レコード用に用意される曲はなぜか演歌ばかり。当時の野球選手のイメージがそうだったんでしょうね。
それでも、阪神時代の『恋する御堂筋』は藤圭子さんの作詞をしていた石坂まさをさんに、引退後の『アカシヤの面影』は石原裕次郎さんの作曲をしていた鶴岡雅義さんに書いてもらいましたからね。豪華なものですよ。
プロ野球の統一契約書には、「副業の場合は球団と選手で折半する」と書いてあった記憶があります。でも、実際に儲けを取る球団はなかったと思いますよ。売れないですし、僕も1枚売れても数円しか入らないなら、ボールを投げているほうがいい(笑い)。でも、今も印税が年に1000円くらいは入ります。
飲み屋に行くと、「カラオケに入っているから歌ってくれ」といわれて困るんですよ。そういう時は「今は歌手が本業だから、タダじゃ歌わないよ」と返すと、皆引っ込みますね(笑い)。
●えもと・たけのり/1947年生まれ、高知県出身。1971年、東映入団。この年は無勝利で終わるが、翌年トレードで南海入りすると16勝挙げ、エースとなる。
■撮影/藤岡雅樹 取材・文/岡野誠
※週刊ポスト2017年2月10日号