靴底が見えるほど足を高く上げる雄大なフォーム。そこから繰り出される豪速球と落差のあるドロップには、あのベーブ・ルースでさえもキリキリ舞いした──。沢村栄治。戦前期に活躍した伝説の大投手である。
プロ野球史上最高投手との呼び声も高く、その功績を称えて創設された「沢村賞」は、今も先発完投型の投手に与えられる最大の栄誉となっている。今年は沢村の生誕100年の節目。これを記念し、貴重な証言を元に英傑の素顔に迫る。
沢村は1917年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれた。京都商業時代には春・夏の甲子園に出場、1試合23奪三振など才能の片鱗を見せていた。
その名を世に轟かせたのは、日本にプロ野球が誕生する前の1934年、メジャーのスター軍団を招いて行なわれた日米野球だ。日本は米国に0勝16敗と散々だったが、その中で1試合だけ米国に冷や汗をかかせた試合がある。その先発投手が当時17歳の沢村だった。
沢村は序盤から快投。途中、2番チャーリー・ゲリンジャー、3番ベーブ・ルース、4番ルー・ゲーリッグ、5番ジミー・フォックスという、後に全員野球殿堂入りする強打者から4連続三振を奪い、米国の度肝を抜いた。7回、ゲーリッグに意地の本塁打を浴びて0-1で敗れるが、沢村は8回1失点(被安打5、与四球1、9奪三振)。米国代表監督をして「沢村を連れて帰りたい」といわしめた。
翌1935年の米国遠征でも日本のエースとして活躍し、21勝8敗1分け(47試合)。1936年に東京巨人軍(現・読売巨人軍)に入団すると、プロ野球史上初のノーヒットノーランを記録するなど、数々の伝説を残した。『プロ野球なんでもランキング』(イースト・プレス刊)などの著書があり、野球データに詳しい広尾晃氏が語る。
「現在使われる指標で解説すると、沢村は投手で重視されるSO/BB(奪三振÷与四球。2を超えれば好投手とされる)がズバ抜けています。当時はSO/BBが1以下の投手ばかりでしたが、沢村は1936年秋に1.93、1937年春に2.88、秋2.43(※当時は春・秋の2季制だった)といずれもダントツ。奪三振だけでなく制球力もあった、まさに沢村賞の名にふさわしい本格派投手でした」