【書評】『終戦と近衛上奏文 アジア・太平洋戦争と共産主義陰謀説』/新谷卓・著/彩流社/4500円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
ポストファクトの時代の助走としてあったのは陰謀史観の公然化である。トランプの主張に地球温暖化中国陰謀説などの「陰謀史観」が多く紛れ込んでいるが、日本でもヤフーニュースのコメントなどで「サヨク」の「勢力」が「反日」的陰謀によって蠢いているかのようにしばしば語られている。SNSが世論を形成する時代には政権選択にまで反映する。
本書は「大東亜戦争」は、軍や政府に潜入した共産主義者が、戦争による疲弊に乗じて共産主義革命を起こそうとしたものだ、だから「国体」の変更を求めない英米との終戦を探るべきだという近衛文麿の敗戦直前の上奏文の背景にある「陰謀史観」成立の経緯と、何よりその「史観」がいかに戦時下の軍や政府の意思決定や事件の要因として作用したかを丹念に追う。
陰謀史観を論破するのは相手が「事実」に立脚することを拒むので悪魔の証明に等しい。愚かだと嗤ったところで通じない。「事実」を信じようとしない時代に必要なのは陰謀史観が陰謀史観であることの論破でなく、それがいかに現実に対し作用してしまうかを知ることだ。
ぼくは以前、終戦直前、柳田國男の周辺にオカルト系陰謀史観の関係者が出入りしたことに注意を促したことがある。戦時下、この国の中でイデオロギーとは別に「合理」と「非合理」の暗闘があり、「合理」の側が共産主義陰謀史観では「アカ」と名指しされた。ポストファクトの時代はこの戦いが一挙に可視化されたと言える。
戦後刊行された「敗戦」に至る過程までを共産主義の陰謀と説く書には、岸信介が序を寄せている、というが、「論壇」にいた若い頃、真顔でこの「史観」を語る人を幾人も見た。「論壇」や政治周辺の裏で語られてきたこの種の「陰謀史観」がSNSによって表層に拡散し、「世論」の基調に潜り込んでいるのが「真実後」の時代だ。「陰謀」でなく「陰謀史観」がいかに現実の歴史を動かし得るのか。本書が示した「歴史観」で「現在」を見ることが重要である。
※週刊ポスト2017年2月10日号