「プロ野球選手にとって、レコードを出すことはステータスだった」──1970~80年代にかけて活躍した江本孟紀(南海、阪神)や松岡弘(ヤクルト)が口を揃えていうように、王貞治(巨人)や山本浩二(広島)など当時の一流選手は軒並みレコードデビューを果たしている。
レコード会社にとっても、メリットは大きかった。娯楽の王様だったプロ野球の人気選手がシングル盤を出せば、大ヒットは難しくとも、確実に一定の売り上げが見込める。2000~3000枚捌ければ採算が取れる時代に、両者の思惑は合致していた。
プロ野球選手が出すレコードは、主に3タイプにわかれる。一番多いのが演歌調の曲。そして、アイドル的人気を誇った選手に多い、ポップス系の曲。最後に、球団歌や応援歌など野球と密接に関係した曲だ。
歴史を遡ると、1958年の豊田泰光(西鉄)を皮切りにプロ野球選手がレコードをリリースするようになる。その豊田は同年、『西鉄ライオンズの歌』の2番をソロで任されている。松岡弘が『とびだせヤクルトスワローズ』を、大洋の10選手が『行くぞ大洋』を歌唱したように、1970年代までは選手が球団歌を歌うことは珍しくなかった。
同時期、選手のオリジナル盤発売が活発になる。その背景を、野球文化評論家のスージー鈴木氏はこう分析する。
「個々の選手グッズが少ない時代に、レコードはファンと選手を繋ぐコミュニケーションツールの1つとして機能していました。また、収録曲やジャケットは当時の音楽界を反映しています」
五木ひろしや森進一、都はるみがレコード大賞を獲得するなど演歌全盛期を迎えていた1970年代、小林繁(阪神)などがこぶしを効かせ、パンチパーマやアイパーをかけてジャケット撮影を行なった。アイドルブームが起こり、ニューミュージックが完全に市民権を得た1980年代に入ると、原辰徳や定岡正二(ともに巨人)、高橋慶彦(広島)が流行のファッションに身を包み、ポップスを歌うようになった。