安倍晋三首相は待望のドナルド・トランプ大統領との首脳会談に加え、「一緒にゴルフもできる」と浮き足立っているが、忘れてはいけない。歴代首相は決まって米大統領と会談するたびに「対等な関係を築いた」「信頼と友好を確認し合った」と日本向けにアピールしてきたが、戦後70年余り、日米首脳会談は非礼な要求が繰り返される「屈辱の歴史」だった。
日本で最初に日米首脳会談を行なったのは吉田茂首相だ。ただし、サンフランシスコ講和条約締結(1951年)のために訪米した際には、トルーマン大統領には会えず、アチソン国務長官が応対した。この時に結ばれた日米安保条約も、吉田とアチソンが調印している。吉田は1954年11月に初めてアイゼンハワー大統領と会談した。
安倍首相の祖父、岸信介は1957年、そのアイゼンハワーとの首脳会談で安保条約改定を提案、2度目の訪米(1960年)で「対等な日米関係」を謳う新安保条約の調印にこぎつけた。しかし、対等といいながら米国側で新安保条約に署名したのは大統領ではなくハーター国務長官。条約は同格の全権代表が署名するものだが、米国は日本の首相を大統領と同格と見なしていなかった。
「日米首脳会談で最も煮え湯を飲まされたのは田中角栄首相でしょう」
そう語るのは外務省国際情報局長などを歴任した外交評論家・孫崎享氏だ。
田中は独自外交で米国の頭越しに日中国交正常化を目指した。それを知ったニクソン大統領は対中国外交で日本に出し抜かれることを恐れ、「日中交渉の延期」を申し渡すために腹心のキッシンジャー大統領補佐官(後に国務長官)を日本に派遣した。ところが、田中は「なぜオレが補佐官に会わなきゃいけないのか」と渋った挙げ句、キッシンジャーの要請を一蹴する。
1972年8月、田中は中国訪問に先立ってハワイでニクソンと首脳会談を行なったが、ニクソンもキッシンジャーも激怒していたという。
「キッシンジャーは日米首脳会談直前、『汚い裏切り者ども(bitchs)の中でよりによって日本人野郎(Japs)がケーキを横取りした』と怒りを爆発させており、ニクソンも田中首相を罵倒したといわれています。田中首相も、日本の記者からニクソンは激しかったかと質問され、『当然だ』と答えている」(孫崎氏)
実は、この首脳会談で米国側から日本にロッキード社のP-3C対潜哨戒機の売り込みがなされ、後に田中を失脚させるロッキード事件の伏線となったとも言われている。
(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2017年2月17日号