【書評】『東京を愛したスパイたち 1907-1985』/アレクサンドル・クラーノフ・著、村野克明・訳/藤原書店/3600円+税
【評者】川本三郎(評論家)
「東京」に興味を持っているので書名に「東京」とあるとまず手に取ってみる。本書も専門外と思ったが「東京」が気になる。読み始めたらこれが面白い。
戦前、戦後の東京に住んで諜報活動を行なった外国人の行動を辿っているのだが、著者の関心は彼らの活動にはなく、彼らにとっての東京にある。つまり、彼らが東京のどこに住んだか、どんなレストランやホテルを利用したか。現代ロシアの代表的日本学者という著者は、自身東京を愛し、町歩きを楽しみながらスパイたちの足跡を追う。
ソ連のために働いたドイツ人の有名なゾルゲは東京のどこに住んだか。実際に歩いてみて、その家が麻布永坂町にあったことを突きとめる。なんとその場所は彼を監視していた鳥居坂警察署のすぐ近くだった。偶然か目くらましか。
ゾルゲはオートバイ好きで夜の東京を走りまわった。ある時、事故を起し、ある建物の壁に衝突した。アメリカ大使館の壁だった。ゾルゲがよく行ったドイツのレストラン「ラインゴールド」(戦後は「ケテル」)が銀座にあったこと、そこで働く日本人女性と愛し合ったことにもページを割く。
日本ではあまり知られていないさまざまなソ連のスパイが登場する。昭和のはじめ、東京に住んだオシェプコフなる人物は、講道館で柔道を学び、ロシア人としてはじめて段位を取得。帰国後はソ連流に改め、新しい格闘技「サンボ」を創始したという。
興味をそそられるのは、ロマン・キムなる謎の多い人物。両親は朝鮮からロシアに亡命した。父親は商人となり、息子を日本の慶應義塾普通部に入学させた。少年時代のキムについては、志賀直哉の弟、直三が自伝『阿呆傳』で書いているという。
長じてソ連のスパイとなった。驚くのは、戦後、推理小説を書いたこと。邦訳もある『切腹した参謀達は生きている』には終戦後、混乱期の東京の闇市が生き生きと描かれているという。この人物も間違いなく東京を愛した。
※週刊ポスト2017年2月17日号