現在、日本で唯一プロマイド販売を行なう、東京・浅草にある「マルベル堂」はひょんなことからスタートした。
大正時代、初代社長である三ツ澤実四郎は洋食屋を営んでいた。ところがコックが駆け落ちしてしまい、廃業寸前に陥る。そこで、映画スター写真の収集家だった三ツ澤は方向転換し、自分のコレクションを店内で売り出すと、客の間で評判となり、大正10年にマルベル堂を創業した。写真の高級印画紙である「ブロマイド」から転じて、商品を「プロマイド」と名付けた。
撮影したスターの第1号は、人気女優・栗島すみ子だった。同社6代目カメラマンで、店長を務める武田仁氏が話す。
「当時は社内スタジオでの撮影はもちろん、浅草に映画初日の舞台挨拶に訪れた女優さんを撮ることも多かったようです。また、映画の撮影所に出向き、偶然居合わせた俳優も含め、何人も撮って帰ってきたそうです」
三ツ澤は売上高の20%を広告費に投入し、飛行機でビラを空中からバラまいたこともあった。
太平洋戦争が始まると、「プロマイドは戦時下に於いては害あって益なし」と当局から販売中止要請が出される。「兵士が所持し、癒しになっている」というマルベル堂の主張は通ったが、その代わりに将官写真の出版を約束し、山本五十六海軍大将や東条英機陸軍大将などのプロマイドが発売された。
戦後、マルベル堂は岐路を迎える。経済事情の急激な変化で、昭和21年に1円だったプロマイドの価格は、昭和32年に30円まで上がる。客の大半が学生だったため、このまま物価上昇のペースに合わせてしまえば、プロマイド出版自体が崩壊してしまう。そこで、2代目社長・三ツ澤正治は昭和35年以来、飲食業などを始めて利益を上げ、プロマイドの高騰を防いだ。
「どんな時代になろうとも、プロマイド出版の灯は消さない」という創業者の遺志を継ぎ、現在も様々な試みを展開している。その一つが、3年前から開始した一般向けのプロマイド撮影だ。
「60代半ばの男性に『アイドルっぽく遺影を撮ってくれ』と頼まれたこともあります。背景をピンク色にし、ジージャンを着ていただき、赤いバンダナを巻いてもらいました(笑い)。人それぞれ、プロマイドに懸ける熱い想いがあるんですね」(武田氏)
※週刊ポスト2017年2月27日号