【書評】『戦間期の 日本海軍と統帥権』太田久元・著/吉川弘文館/9500円+税
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
太平洋戦争中のミッドウェー海戦ひいては大戦の悲劇的な大敗の遠因は、日本海軍の中に政治と軍事の関係をバランスよく考える現役将官が少なかった点と無縁ではない。
昭和7~8年(1932~33)の大角岑生海軍大臣の人事は、作戦にあたる軍令部を軍政の任をもつ海軍省より優位に置いた結果、山梨勝之進や堀悌吉など政軍協調系の指導者を予備役に追い込むことになった。すると、その首魁だった加藤寛治元軍令部長や末次信正連合艦隊司令長官といった純軍事系の天下になったかと思えば、そうでもないのだ。
大角人事の性格はもっと複雑であり、その私心や保身本能にも彩られたものだった。軍令部優位に省部の事務関係の見直しを図った条例や規定の改正にも大きな役割を果たしたのは大角であった。
彼は、軍令部長の伏見宮をかついだ加藤や末次の反感を買わずに、海相の地位を保持する思惑もあってロンドン軍縮会議をリードした協調派の粛清人事を断行した。しかし、加藤らのゆきすぎを危惧して自分なりの権力と権威にこだわる伏見宮の憂慮を見て、今度は加藤・末次一派の整理を図る。
その結果起きたのは、軍政軍令畑いずれの流れにおいても、日本の対外ビジョンと陸軍に対抗できる戦略をそれなりに考える骨太の人材が海軍から払底した現実である。大角海相は、その時点で影響力のある人物に擦り寄って権力を保持する傾向があった。1933年から日米開戦まで、海軍の状況がおかしくなった大きな責任は大角海相にあるといってよい。
軍令部中心で勤務した高級士官が海軍省の人事も押さえることになって、海軍大国英米との現実的な均衡を模索する空気がなくなった。これは、独自政策を形成する能力の欠如をもたらし、陸軍に追随するだけの小粒な海軍官僚を生み出してしまった。また、皇族の名を借りて派閥人事を強行する有様を見ると、皇室の政治利用がいかに恐ろしいかを痛感するだろう。陸軍中心の軍事史研究を脱却して歴史の教訓を学べる好著である。
※週刊ポスト2017年3月3日号