国交正常化から半世紀。韓国の反日は、どのように激化と沈静化を繰り返してきたのか──。経済復興を政策の一丁目一番地に掲げた朴正熙政権は、1965年の日韓国交正常化後、日本から8億ドルに上る経済支援を受けたことで、日本に強気の態度を示さなかった。
だが、1974年の朴正熙暗殺未遂事件を契機に反日感情が高揚する。「犯人が在日韓国人」という理屈からだ。その後の朴正熙の暗殺、光州事件の発生という韓国国内の混乱で反日は一時、鳴りを潜めたものの、全斗煥時代の8年間で反日が徐々に顕在化していった。
全大統領は歴史教科書で反発。日本の出方を窺いながら、任期が残り半年となると「克日」を掲げて独立記念館(※注)を開館した。
【※注/「日本の侵略行為を永遠に記憶しよう」という意図で1987年に開館。日本憲兵による拷問シーンを蝋人形で再現した展示物など、反日をテーマとした資料が多数公開されている】
盧泰愚政権から李明博政権までの25年間は、政権末期の政局を睨みつつ、支持率下落の回避を目的として反日が利用された。
初の文民政権として登場した金泳三大統領は、支持率低迷期に「歴史立て直し事業」の一環で旧朝鮮総督府を解体。さらに、支持率が20~30%台に下がった任期3年目には、竹島に接岸施設を建設し、領土問題に火を付けた。
その後、サッカーW杯日韓共催や韓流ブームで反日ボルテージは小康状態を保ったが、盧武鉉大統領による対日強硬政策で再びヒートアップ。さらに政権末期の支持率低迷を打破しようとした李明博大統領の竹島上陸、天皇への謝罪要求で反日は決定的となった。
知日派と目されていた朴槿恵政権でも対日強硬政策が続けられたが、米・オバマ政権の要請もあって矛を収め慰安婦合意に至る。 だが、朴政権批判で支持率を伸ばす次期大統領候補の文在寅氏は早くも合意の破棄を示唆。常に韓国国内の政治状況に日韓関係は振り回されるのである。
■取材協力/藤原修平(在韓ジャーナリスト)
※SAPIO2017年4月号