江戸時代・火付盗賊改方の長である「長谷川平蔵」とは実在する旗本の歴代の名称。「鬼平」こと長谷川平蔵は二代目の宣以(のぶため)を指す。幼名は銕三郎(てつさぶろう)。青年時代は放蕩無頼の風来坊で、「本所の銕」と呼ばれて恐れられた。池波正太郎『鬼平犯科帳』の主人公について歴史家・安藤優一郎氏が明らかにする「まさかの素顔」とは。
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〈「こやつどもを生かしておいてはためにならぬ。刃向かう者は斬れ!!」
と、平蔵は抜き打ちに浪人くずれ二人を、水もたまらず斬って捨てたものである〉(『鬼平犯科帳』より)
罪人たちを厳しく取り締まることで「鬼平」と称される長谷川平蔵。実在した江戸時代中期の旗本で、鬼平は放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改方の頭(長官)だった。厳しさの反面、囚人と酒を酌み交わすなど人情にあふれ、「御頭」と多くの部下や市井の人々に愛された人物である──。
豪腕で悪人を討ち、江戸の治安を守る現場主義の頼もしい親分が我々が思い描く鬼平像だろう。
だがこれは池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれた鬼平であり、作品には描かれていない意外な素顔が多く存在する。
無骨で物々しい捕り物現場が似合いそうだが、一方で平蔵は幕府の行政マンとしても立派な業績を残している。寛政の改革の目玉事業として教科書にも登場する石川島の人足寄場の生みの親は平蔵だ。
人足寄場は、主に無宿と呼ばれる仕事にあぶれた無戸籍の人たちを対象にした職業訓練所のようなところだ。当時、生活に窮した無宿者たちの犯罪が問題になっていたため、平蔵が時の老中松平定信に具申し設立され、自ら運営にもあたっていた。