【書評】『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』/柄谷行人・著/ちくま学芸文庫/1000円+税
【評者】大塚英志(まんが原作者)
ぼくが「まんがの描き方」を教える旅を始めたのはアジアとの「領土問題」がきな臭くなり始めた頃だ。2012年の秋、中国で反日デモの嵐が吹き荒れた直後、日本人の姿が消えた北京にいた。その時、中国の友人が「今、北京にいる日本人は柄谷行人と大塚だけだよ」と笑った。日本文学の講義を北京の大学でしていたらしい。
ぼくも柄谷も狙ってそのタイミングでというのではなく、偶然、そうなって、しかしぼくが北京行きを辞退しなかったように、彼もその必要を感じなかったのだろうとは思う。ぼくはむしろその偶然に感謝し、「描き方」という「方法」を携えて文化と文化、国家と国家を「越える」ことは案外と悪いことではない、と思った。そして初めて柄谷の言う「トランスクリティーク」が実感できた。
柄谷は、自分の批評をふり返った本書収録の講演「移動と批評」の中で、カントやマルクスの「批評」は「移動」によってもたらされたと指摘する。マルクスは文字通り「政治的状況に強いられた亡命」としての「移動」だ。
ぼくは別に亡命したわけではないが、アサド政権の虐殺に抗議するキャンドルで埋まるモントリオールやテロ直後のパリのイスラム系移民の集まる施設や宗教派が占拠するエルサレムや大統領弾劾のデモで埋まるソウルで、いつも呑気に「批評」ではなく「まんがの描き方」を教えている。柄谷のことばを借りれば「あえて移動を求めた」のではない。そして「気がついたら」「状況そのものが移動していた」と柄谷は言う。ぼくも今、同じように感じる。
外で出会う現実からこの国の現実に戻ると、それはあたかも今、流行の「ファクト」と「オルタナティヴ・ファクト」の間の「移動」のようだ。といってもどの国でも代替現実が世論の半分を占めるから、何も見たくなければ代替現実内での「移動」も可能だ。柄谷が今どこにいて何をしているのかは知らないが、移動していれば現実と代替現実の境のどこかですれ違うかもしれないな、と思う。
※週刊ポスト2017年4月7日号